記事一覧

桜三月散歩道 《 観ずる東京23区 その11 》

《 観ずる東京23区 その11 》


       桜三月散歩道


              東京23区研究所 所長 池田利道


桜前線異常あり

 恥ずかしながら、フォーク世代ど真ん中である。『桜三月散歩道』は、1973年にリリースされた井上陽水のアルバム『氷の世界』の収録曲。社会にも、人にも、自分自身にも、斜に構えて意気がる流行り病に罹っていた当時の若者の心に、「だって人が狂い始めるのは、だって狂った桜が散るのは三月」というフレーズはズシンと響いた。改めて思えば、狂えるほどに無心になれることを探し求めていたのかも知れない。

 今、狂い始めているのは地球環境。徐々に春の訪れを告げていく沈丁花とこぶしと桜の花が、今年は一度に咲いた。早すぎる桜前線の到来に、各地の桜祭りはテンヤワンヤの騒ぎらしい。


予期せず生まれた桜のオアシス

 音楽の主流が、フォークソングからニューミュージックへと移りつつあった1970年代末、文京区に住み、毎日播磨坂を上り、下った。そんなセンチメンタリズムを別にしても、播磨坂は東京指折りの桜並木だ。460mの緩やかな坂道に植えられた桜の樹は約150本。道路の両側と中央分離帯の3連並木が、文字どおり桜のトンネルを作り出す。

ファイル 35-1.jpg
   播磨坂桜並木
    ※画像はクリックで拡大。

 播磨坂は、別名「環三通り」と呼ばれる。環七、環八の環三である。春日通りと千川通りの間に、幅40mの道路が突如現れ、突如終わる謎を解くカギは、この別名の方にある。

 戦災復興計画の中で、東京23区には8つの環状幹線街路が都市計画決定される。環七はその7番目。環八は8番目。当然1~6もある。ごく大雑把にいうと、環一は内堀通り。環二は外堀通り。ただし、環二には環状部分の他に直線部分がある。この直線部分が、近年ようやく工事が始まった「マッカーサー道路」だ。環四は、外苑西通りや不忍通りなどだが、全体はまだ未完成。外苑西通りも、不忍通りも、途中で行き止まりになるのはそのためだ。環五の明治通り、環六の山手通りは、比較的分かりやすい。

 ひとつ飛ばした環三はほとんどが未整備で、道路の体をなしているのは、青山1丁目から六本木トンネルを経て芝公園に至る区間だけ。とはいっても、都市計画決定されているから区画整理を行うと道路用地を確保しなければならない。播磨坂は、こうして生まれた環三の断片である。いや断片であるからこそ交通量が少なく、中央分離帯に遊歩道を設け、桜並木を思う存分に楽しめるオアシス空間が生み出された。


ソメイヨシノ発祥の地

 播磨坂の桜は、八重も混じるが大部分がソメイヨシノ。全国的にみても、桜の名所の8割がソメイヨシノといわれる。桜といえばソメイヨシノが通り相場だ。

 ソメイヨシノの「ソメイ」は地名。かつて植木の一大生産地であった染井村に由来する。駒込駅の北西部、今の住居表示では豊島区駒込3・6・7丁目付近である。エドヒガンとオオシマザクラの交配種であるソメイヨシノが、同じDNAを持つクローンであることは良く知られている。一方その起源は、自然交雑説、人工交配説など諸説が入り乱れる。だが、クローンを育て、広めたのが染井の植木職人たちであったことは間違いない。

 ちなみに、ソメイヨシノの「ヨシノ」は、当初のブランド名が「吉野桜」であったため。奈良県吉野のヤマザクラとの混同を避けるため、明治になってから名称が改められた。
 駒込駅の周辺には、ソメイヨシノが華麗な姿を競う散策スポットが数多い。駅前の「染井吉野桜記念公園」、旧日本興業銀行跡地を活用した「染井よしの桜の里公園」、染井を代表する植木職人丹羽家の邸宅跡である「門と蔵のある広場」。なかでも圧巻は、岡倉天心や高村光太郎・智恵子らが眠る染井霊園だろう。大きく枝を張った桜の樹は、ソメイヨシノ発祥の地にふさわしい。

ファイル 35-2.jpg
   染井霊園の桜
    ※画像はクリックで拡大。


浮かれますか? 狂いますか?

 東京都内の街路樹で一番多いのはイチョウ。2位は近年人気が高騰しているハナミズキ。国道や都道はイチョウが1位。市町村道ではハナミズキが1位。対して、区道の1位は桜。区民は、桜がことのほか好きなのだろうか。

 公園を覆う面としての桜。並木が連なる線としての桜。どんなシチュエーションにあっても、日本人は桜が大好きだ。孤高に立つ一本桜もまた格別。駒込六義園のしだれ桜は、東京の「点の桜」を代表する。樹齢は60~70年と古木とはいえないが、その妖艶な美しさは人々を魅して止まない。

ファイル 35-3.jpg
   六義園しだれ桜
    ※画像はクリックで拡大。

 古来、桜には魔物が住むという。今年の桜の下は、アベノミクスに浮かれる人々で例年にない賑わいらしい。円安、株高の好材料はあるものの、庶民の実感にはまだ結びついていない。にもかかわらず、浮かれ騒ぐ人々の姿は、桜の魔性に取り付かれたかのようにも見える。

 ひろさちや氏は、狂うとは常識のくびきを超え、自由な発想に立つことだと説く。だとすれば、浮かれるのと狂うのとでは根本的に異なる。浮かれるだけでは未来は生まれない。

 漠たる思いを残したままに、桜前線はやがて東日本大震災の被災地へと北上していく。

見えない川から見える渋谷 《 観ずる東京23区 その10 》

《 観ずる東京23区 その10 》


  見えない川から見える渋谷


      東京23区研究所 所長 池田利道


渋谷の50年

 3月16日、東横線渋谷駅が地下に移り、地下鉄副都心線と相互乗り入れが始まった。カマボコ屋根の旧駅舎ができたのは、東京オリンピック開幕直前の1964(昭和39)年5月。当時の渋谷には、東急本店も西武もパルコも109もなかった。その後の半世紀で、渋谷は大きく発展していく。まちのめまぐるしい変貌を、東横線渋谷駅の旧駅舎は黙って見つめ続けてきた。

 現在の渋谷駅には、JR山手線、JR埼京線&湘南新宿ライン、東急東横線、東急田園都市線、京王井の頭線、地下鉄銀座線、地下鉄半蔵門線、地下鉄副都心線の8つの路線が集まる。1日あたりの平均乗降客数は約300万人。乗降客が350万人を超え、ギネス認定世界一の新宿駅には及ばないまでも、池袋駅(約250万人)と共に3大ターミナルの一角を占める。乗降客数4位は北千住の約150万人、5位は東京駅の約90万人だから、ビッグ3がいかに頭抜けているかが分かるだろう。

ファイル 34-1.jpg
  東横線旧渋谷駅舎のカマボコ屋根
   ※画像はクリックで拡大。

 ところがこの渋谷駅、「迷宮」さながらで、慣れていないと何とも使いにくい。谷底にあるため、駅が立体構造にならざるを得ないためだ。渋谷川がこの谷底地形を作り出した。


見えない川を歩く

 渋谷川の最下流は、竹芝桟橋と日の出桟橋の間に架かる新浜崎橋。ここから、赤羽橋、麻布十番の一之橋、北里大学裏の五之橋を経て天現寺橋までは港区。港区の間は古川と呼ばれる。天現寺橋からは明治通りと並行して流れ、渋谷駅の手前で暗渠となる。

 暗渠になっても、かつて川であった痕跡は随所に残っている。見えない川を遡っていこう。

 渋谷駅の前で、渋谷川は本流と支流に分かれる。支流の名は宇田川。西武百貨店やパルコ、渋谷区役所の住所は渋谷区宇田川町。まずは地名に川の痕跡を見つけた。

ファイル 34-2.jpg
  ビルの間を流れる渋谷川
   ※画像はクリックで拡大。  

 井の頭通りを挟んで建つ西武のA館とB館が地下で繋がっていないのは、井の頭通りの下に宇田川の暗渠が埋まっているから。結構有名な話だが、半分間違っている。文化村通りを流れていた宇田川の下流を昭和の初めに暗渠化したとき、流路を付け替えて井の頭通りの下を通したのが正解らしい。

 宇田川交番の前を左に進むと、奇妙なものに出合う。ガードレールが高さ20センチほどの台の上に乗っている。護岸の名残りだろうか。やがて道は「宇田川遊歩道」と名を変える。微妙なカーブの連続は、川ならではの痕跡である。

 代々木八幡駅の手前で宇田川遊歩道から分かれる細い路地は河骨川の跡。水草のコウホネが群生していたことに由来する。夏には、黄色い花が川を彩ったことだろう。そして春には、岸にスミレやレンゲの花が…。河骨川の近くに住んでいた高野辰之は、この長閑な眺めを詩にする。今も歌い継がれる『春の小川』だ。河骨川跡のクネクネとした道を辿っていくと、小田急線の線路沿いに春の小川の歌碑が立つ。結構分かりにくい場所だが、見えない川が迷うことなく案内してくれた。

ファイル 34-3.jpg
  春の小川の歌碑
   ※画像はクリックで拡大。


水道とパワーウォーターのブレンド水

 渋谷川の本流は宮下公園の脇を通り、明治通りを斜めに横切る。明治通りの傍らにぽつん立つ石碑には「宮下橋」の文字。親柱の跡だろう。

 ここから先はキャットストリート。お役所名では旧渋谷川遊歩道路という。

 キャットストリートは、道路面より建物が建つ地盤面の方が低い。新しいビルでは分かりにくいが、住宅が続く場所では建物地盤面と道路面との間に50センチ近い段差がある。その先には、住宅が道に背を向けて建っている。ひと皮外側に一段低い道があり、建物はこの側道を正面とする。かつて川であったことの紛れもない証だ。表参道との交差部にある階段は、橋が架かっていた痕跡である。

 キャットストリートの中にも、親柱の跡と思しき石碑が見つかる。刻まれた文字は穏田橋。穏田と聞いて思い出すのは、北斎『富嶽三十六景』中「穏田の水車」。大正の末頃まで、ここには複数の水車があった。1912(大正元)年に穏田に生まれた米山正夫が、ふるさとの風景を想い描いて作曲したのが『森の水車』。コトコトコットンのメロディは、米山の原体験に基づいている。

ファイル 34-4.jpg
  穏田橋親柱跡
  ※画像はクリックで拡大。

 表参道を越え、道は大きな蛇行を繰り返し、やがて川の痕跡を消す。資料によると、渋谷川の源流は新宿御苑の池とのこと。池の湧水量は少なく、玉川上水の水を引き込んでいたらしい。

 表参道と交わる辺りで、渋谷川はもうひとつの支流と合流する。その跡がフォンテーヌ通りからブラームスの小径。なるほど道はクネクネだし、道路との交差部は階段になっている。水源は東京有数のパワースポットとされる明治神宮の「清正の井」。とすれば、渋谷川を流れる水は、水道水とパワーウォーターのブレンドだったことになる。

ファイル 34-5.jpg
  ブラームスの小径
   ※画像はクリックで拡大。

東急が造ったまち

 自然の美しさと厳しさを感動的に描き出した国木田独歩の名作『武蔵野』。モデルとなったのは、独歩が居を構えた渋谷。NHKと道路を挟んだ向かい側に、「国木田独歩住居跡」の碑が立つ。渋谷駅から、歩いてほんの十数分の場所だ。

 小川がさらさら流れ、水車がコトコト回り、楢林を木枯らしが吹き抜ける。明治・大正時代の渋谷は、東京の片田舎だった。その渋谷の発展の礎を築いたのは、東急の総帥五島慶太である。

 阪急を創業した小林一三を師と仰ぐ五島は、小林が編み出した私鉄経営のビジネスモデルを忠実に再現していく。沿線の住宅開発を行い、郊外にアミューズメントパークを設け、ターミナルに百貨店を開く。上り下りも、朝も昼も夜も、満遍なく鉄道利用客を生み出すためだ。こうして1934(昭和9)年、関東初の電鉄系ターミナルデパートとして東横百貨店が開業する。

 もっとも、温泉と少女歌劇で賑わう宝塚に比べ、玉川遊園地(後の二子玉川園)ではあまりにもパンチに欠ける。それならばと、小林に先立って沿線の学校誘致に力を入れ、百貨店にも秘策を繰り出す。1951(昭和26)年、東横百貨店(現・東横店東館)と玉電ビル(現・西館)を結ぶロープウェイの出現は、人々の度肝を抜いた。だが、あえなく2年で廃止。同じ1951年には、東横百貨店1階に「東横のれん街」をオープン。こちらは大成功を収める。当時、電鉄系百貨店よりはるかにランクが高かった老舗専門店を集めた日本初の名店街は、デパチカの元祖となる。

 「東横のれん街」は、デパチカならぬデパイチ。そもそも東横店東館には地階がない。地下に渋谷川が流れているからだ。


動き始めた渋谷大改造

 振り返ってみれば、渋谷は50年のサイクルでまちが大きく変化してきた。最初の50年は東京の片田舎。次の50年で発展の基礎が築かれ、続く50年で大きな飛躍を遂げる。そして未来の50年に向け、今渋谷の大改造が始まろうとしている。東横線の地下化は、そのステップに過ぎない。

 計画は3つのエリアで構成される。渋谷駅を建て替える「駅街区」。旧東横線の線路跡地を活用した「南街区」。西口の東急プラザ一帯を再開発する「道玄坂街区」。総延床面積は45万㎡。昨春オープンしたヒカリエを加えると59万㎡を超え、東京ミッドタウン(約57万㎡)を上回る。

 これに伴い、東横店東館は3月一杯で閉館し、「東横のれん街」はマークシティに移転する。渋谷川も、地下の暗渠が流路変更され、地上部には清流が復活するとのことだ。

 それにしても、大改造で渋谷駅は分かりやすくなるのだろうか。計画では、地下、地上、連絡デッキの縦動線と横動線を結節する「アーバンコア」を各所に設けるという。しかし、先行して導入されたヒカリエのアーバンコアは、少なくとも現時点では、さほど動線誘導性に優れているとも思えない吹き抜けエレベータ空間に止まっている。

 「迷宮でいいじゃないか。迷宮の魅力を楽しませることこそ、知恵の出しようじゃあないのかい」。地下生活先輩格の渋谷川が、後輩の東横線にそうつぶやいているかも知れない。果たしてどうなることやらは、今後のお楽しみとしておこう。

冬の花便り 《 観ずる東京23区 その9 》

《 観ずる東京23区 その9 》


     冬の花便り
  
        東京23区研究所 所長 池田利道       
  
                        

凛と咲く花

 この冬は寒い。そう感じるのは、歳のせいばかりではなさそうだ。気象庁のデータをみると、昨年12月の東京の平均気温は7.3℃。平年を1.4度も下回っている。1月も5.5℃で、平年より0.6度低い。

 寒いと、どうしてもうつむき加減にまちを駆け抜けてしまう。「観ずる」ゆとりも生まれてこない。そんなとき、ほんのりと心を暖めてくれるのが、寒さに耐えて咲く花の姿。寒い寒いと閉じこもっていないで、冬の花を探しに行こう。


つぼみ、陽ざし、力

 日本一の大観覧車と雄大なマグロの群泳が人気の葛西臨海公園。東京随一の水仙の名所でもある。観覧車の足元に、20万本のニホンスイセン畑が広がる。今年は開花が遅れ、2月の中旬になってもまだ5分咲きといったところだが、5分を見て満開を想うのも、また一興を誘う。 〈水仙の いつまでかくて 莟かな 子規〉。

ファイル 33-1.jpg
 葛西臨海公園水仙畑
   画像はクリックで拡大

 鮮やかな黄色のラッパスイセン。内側の花びら(副花冠)が、色も形もハデハデしいセイヨウスイセン。対してニホンスイセンは白が基調。副花冠も上品な黄色だ。わが国固有種ではないそうだが、「うぬぼれ」の花言葉の元になったのはセイヨウスイセンの方だろうと、勝手に納得したくなる。

 港区の自然教育園には、福寿草がひっそり咲いていた。6万坪の全域が天然記念物に指定され、武蔵野の自然が今も残るここならば、福寿草に出合えるに違いないとの読みがズバリと当たる。

 陽が陰ると花をすぼめるのは、虫を誘う熱を逃がさないようにするためらしい。淡い陽ざしの中に咲く、冬の花ならではの進化の妙といえるだろう。 〈福寿草 影三寸の 日向哉 子規〉。

ファイル 33-2.jpg
 自然教育園に咲く福寿草
  画像はクリックで拡大

 寒椿を求めて訪れた小石川植物園。メンデルのブドウの樹、ニュートンのリンゴの樹、精子発見のイチョウの樹などが有名だが、ツバキ園も隠れた人気スポットである。ところが、ツバキ園は冬まっ只中。花が咲いているのはごく一部で、大方は花芽が固い。「ツバキは木偏に春と書くのだから無理もない」。そう諦めて帰りかけた正門の近くに、寒椿の花が待っていた。

 自然教育園もそうだったが、冬の植物園は訪れる人がほとんどなく閑散としている。そんなことを気にする風もなく、寒椿は精一杯咲いていた。 〈寒椿 力を入れて 赤を咲く 子規〉。

ファイル 33-3.jpg
 小石川植物園の寒椿
  画像はクリックで拡大


TOKYOを支える江戸の遺産

 葛西臨海公園は、埋立地の区画整理により、平成の世になって生まれた。一方、小石川植物園の歴史は、江戸時代まで遡る。当初は、5代将軍綱吉が館林藩主だった頃の白山御殿。その後、小石川御薬園を経て、吉宗の時代に小石川養生所となる。山本周五郎『赤ひげ診療譚』の舞台である。

 文京区には、大名屋敷をルーツとする施設が多い。東大は加賀前田家の上屋敷。後楽園は水戸徳川家の上屋敷。六義園は大和郡山柳沢家の下屋敷。教育の森公園(旧・東京教育大学)は福島守山藩松平家の下屋敷等々だ。

 大名屋敷となれば、港区の方が本場。自然教育園は高松松平藩の下屋敷。東宮御所や迎賓館を抱える赤坂御用地は紀伊徳川家中屋敷。東京都立中央図書館がある有栖川宮記念公園は、公園横の南部坂の名のとおり盛岡南部家の下屋敷。旧芝離宮庭園は小田原大久保家上屋敷(後に紀伊徳川家下屋敷)。青山霊園は美濃郡上八幡青山家下屋敷。慶応大学は島原松平藩中屋敷。六本木の国立新美術館は宇和島伊達藩上屋敷。数えあげれば切りがない。

 話題のトレンディスポットも、歴史を追えばそのほとんどが大名屋敷に辿りつく。

 汐留シオサイトは仙台伊達家、会津松平家、播磨龍野脇坂家の屋敷跡。赤坂サカスは広島浅野家中屋敷。ミッドタウンは長州毛利家中屋敷などなど。六本木ヒルズは密集市街地の再開発だが、最大の地権者であったテレビ朝日は、長府毛利家の上屋敷跡に建っていた。天気予報でお馴染の毛利庭園は、毛利といっても分家の方だったのだ。


「豊かさ」の違い

 東京23区の緑被率は20%強。大阪市の2倍を超える。横浜市はおよそ30%だが、緑区、栄区、泉区などの郊外区が数字を稼ぎ、都心の緑は多くない。これに対して東京23区の緑被率は、ベスト3こそ練馬、世田谷、杉並の郊外区が並ぶものの、4位渋谷区、5位港区、6位千代田区、8位文京区と都心の緑が多い。この数字に、大名屋敷にまで遡る江戸の遺産が示されている。

 もっとも、江戸の町人地は15%程度。そこに人口の半分が住んでいたというから、庶民にとっては超過密都市だった。落語の定番である裏店の長屋は9尺2間。つまり、たったの3坪(畳6枚分)。おまけに隣との境は薄板1枚。プライバシーなどあったものではない。その代わり、近所の助け合い精神はピカイチだった。

 江戸のまちと現代の東京。どちらが豊かかは一概に評価できない。少なくともいえることは、江戸の庶民は狭い家を決して苦にしていなかったことだ。それは諦めではなく、彼らなりに積極的に評価すべき価値観があったからに他ならない。

 水仙から始まって江戸のまちまで、話が大きく脱線してしまった。まあ、いいか。「水仙も、江戸のまちも、どちらもシロが基本です」。お後がよろしいようで。

23区の“背番号”

東京都の特別区部には23の区がありますが、この各区を列記する場合には、その順番が決まっています。トップは千代田区です。次いで、中央区、港区、新宿区…と続いていきます。そして、ラストの23番目が江戸川区となります。

東京都が公表する統計データを区別に集計して示す時なども、この順番になっていることに気づくと思います。

この順番、明治時代から昭和初期まで続いた旧15区(後に35区に拡張、第二次大戦後、これが23区に整理統合される)時代の名残を残すものです。

旧15区時代には、皇居のある麹町区(現在の千代田区の一部)を起点として、時計回りに「の」の字を書くように区の順番が定められていました。麹町区、神田区、日本橋区、京橋区、芝区、麻布区、赤坂区、四谷区、牛込区、小石川区、本郷区、下谷区、浅草区、本所区、深川という順番です。

さて、15区をひと回りしたら、次に、その外側を取り巻くように存在していた郡部でもうひと回りします。これは、荏原郡から始めて、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡という順番になります。

1932(昭和7)年10月1日、「大東京市」が成立します。従前の15区に加えて、周辺5郡82町村を東京市に編入し、市域は大幅に拡張します。これに伴って、新たに20区が設置され、それまでの15区と合わせて35区となりました。

35区時代になった後も、区の順番に関する原則は変わりませんでした。、まず旧市域で「の」の字を書きます。これが一巡したら、新市域の品川区を起点に、目黒、荏原、大森、蒲田、世田谷(以上旧荏原郡)、渋谷、淀橋、中野、杉並(以上旧豊多摩郡)、豊島、滝野川、荒川、王子、板橋(以上旧北豊島郡)、足立(以上旧南足立郡)、向島、城東、葛飾、江戸川(以上旧南葛飾郡)と旧郡単位でひとまわり大きな「の」の字を書くわけです。旧郡域の中では、旧市域に近接している区から離れている区へという順が原則です。

そして、現在の23区、トップはやはり、麹町区を前身とする千代田区(旧麹町区・神田区)です。ここを起点に「の」の字を書いて、江東区(旧深川区・城東区)まで行きます。ここまでが「旧市域」に当たるところ(一部「新市域」含む)ですね。

このあと、「新市域」です。これは品川区(品川、荏原)からスタートして「の」の字を書き、ラストに江戸川区が来ます。

こうして定まっている現在の23区の順番は、次のようになっています。

【1】千代田区(麹町区・神田区)
【2】中 央 区(日本橋区・京橋区)
【3】港  区(芝区・麻布区・赤坂区)
【4】新 宿 区(四谷区・牛込区・淀橋区)
【5】文 京 区(小石川区・本郷区)
【6】台 東 区(下谷区・浅草区)
【7】墨 田 区(本所区・向島区)
【8】江 東 区(深川区・城東区)
【9】品 川 区(品川区・荏原区)
【10】目 黒 区
【11】大 田 区(大森区、蒲田区)
【12】世田谷区
【13】渋 谷 区
【14】中 野 区
【15】杉 並 区
【16】豊 島 区
【17】北 区(滝野川区、王子区)
【18】荒 川 区
【19】板 橋 区(板橋区)
【20】練 馬 区(板橋区)
【21】足 立 区
【22】葛飾区
【23】江戸川区

  ※( )内は旧区名

  <理事・研究員 小口 達也>

東京節分巡り 《 観ずる東京23区 その8 》

《 観ずる東京23区 その8 》


           東京節分巡り


      
                  東京23区研究所 所長 池田利道


恵方巻は21世紀食?

 節分といえば、豆まきに恵方巻。博報堂生活総合研究所の調査によると、2010年の節分に「豆まきをした」人は44%。「恵方巻を食べた」人はこれより多い48%。およそ2軒に1軒で、恵方巻が節分の食卓を賑わわせた(いや、恵方巻だから“黙らせた”というべきか)。

 恵方巻はコンビニが流行らせた新しい風習とされる。火つけ役となったのはセブンイレブン。だが、当初は地域限定商品で、全国販売が始まるのは1998年になってからのこと。恵方巻は、ここから急速に普及していく。ならば恵方巻は、21世紀食といえるのかも知れない。

 もっとも、父が船場の問屋に勤めていたわが家では、少なくとも50年以上前から恵方巻を食べていた。ただし、呼び名は「丸かぶり寿司」。いかにも関西らしいストレートな表現であった。


だるま、猫、僧兵

 今年の節分は2月3日の日曜日。天気も上々だ。東京23区の節分巡りに出かけよう。

 最初に訪ねたのは足立区の西新井大師。弘法大師の創建による東京屈指の名刹である。お目当ては、昭和29(1954)年から続く「だるま供養」。光明殿の庭に積まれただるまの山に、山伏姿の修験者が火を点けると、厳かな読教とともにだるま供養が始まる。

 紙だからよく燃える。時に、中の空気がパーンと弾ける。修験者が刀で正面と四隅と邪を切り払い、だるま供養はクライマックスを迎える。新しいだるまは、境内や門前で売られていた。

ファイル 31-1.jpg
 西新井大師「だるま供養」
  ※画像はクリックで拡大。


 午後からの豆まきには白鵬関が登場するらしい。後ろ髪を引かれながら、新宿区西落合の自性院へ。秘仏「猫地蔵」が、節分の日に限って開帳されるから見逃せない。

 文明9(1477)年、豊島泰経と江古田ヶ原で雌雄を決した大田道灌は、道に迷い大ピンチを迎える。その時、どこからともなく現れた一匹の黒猫。導かれるままに自性院に辿り着いた道灌は、まさに乾坤一擲。石神井城を攻め落とす大勝利を得る。この恩に報いるため、道灌が奉納したと伝えられるのが初代猫地蔵。その後、江戸時代に奉納されたといわれる2代目猫地蔵。

 初代の方は、善男善女がご利益を求めて撫でさすったため、石の塊になってしまっているが、初代を摸したとされる2代目ははっきりと猫の顔を残す。

 自性院の節分会は、七福神のお練りや子どもたちが主役の豆まきも楽しい。

ファイル 31-2.jpg
 自性院「七福神お練り」
  ※画像はクリックで拡大。

 駆け足で訪ねた中野坂上の宝仙寺では、僧兵行列が節分会を彩る。八幡太郎義家が開基したと伝えられる同寺で、僧兵が用いていた遺物が発見されたことに始まるという。現代の僧兵はみな優しい顔だが、平安や鎌倉時代の昔には、いかつい顔をした僧兵が中野辺り
を闊歩していたのだろうか。

ファイル 31-3.jpg
 宝仙寺「僧兵行列」
  ※画像はクリックで拡大。


お寺とコンビニ、どっちが多い?

 3つのお寺は、期せずして弘法大師信仰と縁が深い。西新井大師は、武蔵国八十八か所の1番札所。宝仙寺は、江戸御府内八十八か所の12番札所。自性院は、豊島八十八か所の24番札所である。

 豊島八十八か所の“豊島”は、豊島区ではなく旧豊島郡。北区、板橋区、練馬区を中心に、荒川、豊島、中野、新宿の一部に八十八か寺が分布する。さして広いともいえないエリアに、由緒正しき真言宗の寺院が88もあることは、東京にいかにお寺が多いかを物語っている。

 2009年の「経済センサス」によると、東京23区の仏教系宗教施設の数は2,225。もちろん、その大部分がお寺である。ちなみに、八百屋は1,962店、肉屋は1,167店、魚屋は965店。お寺は、八百屋とほぼ同じ数だけあることになる。

 では、お寺とコンビニはどっちが多い? 全国の仏教系宗教施設数は約63,300。対するコンビニは約43,700店で、お寺の勝ち。ただし、東京23区には4,000を超えるコンビニがあり、ダブルスコアでコンビニの勝ちとなる。東京は、コンビニ王国なのだ。〈注〉

〈注〉コンビニの数は、2007年の「商業統計調査」による。


進化と衰退

 新雅史氏の『商店街はなぜ滅びるのか』は、社会・経済・政治の視点から商店街の盛衰を説き起こした力作である。新氏は、コンビニが商店街の息の根を止めたと語り、その理由を「小売商の近代家族化」に帰する。否定するつもりはない。しかし、いささかうがち過ぎの面も禁じ得ない。

 コンビニが急速に普及するのは1990年代。日本フランチャイズチェーン協会の統計をみると、1988年~1997年の10年間で何と2.9倍の増加を示している。何が歴史の歯車を動かしたのだろうか。

 1987年10月、セブンイレブンが東京電力の料金収納を始める。入金をバーコード管理するというコロンブスの卵的発想は瞬く間に広まり、「料金支払いはコンビニで」が当たり前となる。そしてコンビニは、物販施設からコミュニティ施設へと進化していく。

 かなり不純な動機からスタートした中心市街地活性化の議論は、数多くの「俄か商店街論者」を生み出した。彼らは、「コンビニは商店街の敵だ!」とヒステリックに叫ぶ。しかし、進化の努力を怠る者が消え去らざるを得ないのは、世の常以外の何物でもない。

 宝仙寺の豆まきが終わるころ、まちは黄昏色に染まり始めていた。「ほんに今夜は節分か」。コンビニで恵方巻でも買って帰るとしよう。