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大江戸列伝銅像つづり -歴史を創った人たち- 《観ずる東京23区 その16》

《観ずる東京23区 その16》





    大江戸列伝銅像つづり -歴史を創った人たち-





            東京23区研究所 所長 池田利道







空より広き武蔵野の原

 日比谷公園内の日比谷図書文化館(旧日比谷図書館)に、太田道灌に関連する図書を集めた「道灌文庫」がオープンした。

 1457(長禄元)年、一面の萱原を開き江戸城を築いた太田道灌は、東京の原点を創った人だ。連戦連勝で武蔵野を平定した道灌は、同時に当代一流の歌人であり、文化人でもあった。上洛し、後土御門天皇に拝謁した際、天皇のお訊ねに次々と即興の歌で応えた逸話は、道灌の才をいかんなく物語っている。

 〈露置かぬ 方もありけり 夕立の 空より広き 武蔵野の原〉。「武蔵野とはどの様な所か」との下問に、「空より広き」と応えた道灌。武人らしい雄大な一首である。

 昔も今も、庶民から愛され続けている道灌人気の高さは、東京23区内に3体の銅像があることによく示されている。1体目は、有楽町の旧東京都庁第1庁舎前に、都庁のシンボルとして置かれていた狩装束の立ち姿像。今は、東京国際フォーラムガラス棟の中に立つ。


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  東京国際フォーラムの太田道灌像
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 現都庁の足元、新宿中央公園にも道灌像がある。跪いて扇を差し出す乙女と一対をなすこの像は、落語でもお馴染の「山吹の伝説」を題材にしたものだ。新宿中央公園は、像を公園のオブジェとしており、台座がある訳でもなく、草むらの中に唐突に置かれた感がある。しかし、そこには粋な仕掛けが。4月になると、像の周りに八重山吹の花が咲く。


道灌どのの物見塚

 3体目は、日暮里駅前広場の騎馬像。こちらも武者姿ではなく狩装束だ。狩りの途中で出合った「山吹の謎」を解くことができず、これを恥じて学問に精進したところに道灌人気の真骨頂がある。だから、狩姿が好まれるのだろうか。


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  日暮里駅前の道灌騎馬像
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 道灌山がある日暮里は、太田道灌と縁が深い。そう思っていたが、道灌山の名は戦国時代に関東を領有した小田原北条氏の家臣関道閑に由来するとの説もあるらしい。ともあれ、道灌が武蔵野を見晴らす斥候台(物見塚)を日暮里に築いたことは間違いない。江戸時代になると、塚のそばに「道灌丘碑」が建てられ、江戸名所のひとつになったという。〈陽炎や 道灌どのの 物見塚 一茶〉。

 塚は鉄道を通すとき削られてしまったが、碑は今も本行寺の境内に残されている。


一町老女残すなり

 東京の繁栄の基礎は、道灌より以上に徳川家康の功績が大きい。ところが、東京には長く家康の銅像がなかった。両国の江戸東京博物館開館を記念して、敷地内に家康像が設けられたのは、ようやく1994年のことである。

 といっても、場所は博物館裏の駐車場通路の脇。通りかかった2人連れの女性の、こんな会話が聞こえてきた。「銅像があるよ」。「誰の?」。「徳川って書いてある」。「徳川だれ?」。「徳川イエヤス。えっ!家康だよ」。「ウッソー」。知名度は、おそらくこの程度だろう。

 歴代将軍をはじめ、徳川家ゆかりの人物の銅像は、東京にほとんど存在しない。両国の家康像と、後楽園駅前の礫川公園にある春日局像くらいだ。なぜ春日局の銅像が後楽園にあるのだろうか。

 後楽園は、東京メトロ丸ノ内線、南北線、都営地下鉄三田線、大江戸線の乗換駅だが、都営地下鉄の方は駅名が後楽園ではなく春日。謎を解くカギがここにあった。

 生まれながらの将軍と自称した3代家光の乳母である春日局は、いささかマザコン気味(?)だった家光の権威を背景に絶大な権力をふるう。大奥を組織化したのも彼女。息子は老中にまで出世し、自身も広大な屋敷地を拝領する。その屋敷地が春日の地名の由来となる。

 古川柳に曰く。〈春の日を 一町老女 残すなり〉。もっとも礫川公園の春日局像は、老女とかお局様というよりも、若き可憐な女性の姿である。


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  後楽園の春日局像
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住み替はる代ぞ雛の家

 目を文化の世界に転じよう。俳句を芸術として完成させた松尾芭蕉。忍者だ、隠密だと謎に包まれている芭蕉が、突然深川に転居したのは1680(延宝8)年のこと。門人から贈られた芭蕉が見事に茂ったことから、住まいは芭蕉庵と呼ばれるようになり、号も芭蕉に変える。同時に、作風も侘び、寂びの世界を極めていく。芭蕉庵の場所は、小名木川と隅田川の合流点近くにある芭蕉稲荷の地とされる。

 深川には2体の芭蕉像がある。ひとつは芭蕉稲荷に隣接する芭蕉記念館分館に置かれた座像。多くの門人を育てた宗匠の姿を彷彿とさせる。もう1体は、仙台堀川海辺橋たもとの採荼庵((さいとあん)跡にある旅姿の像。1689(元禄2)年3月、芭蕉はここから「おくの細道」の旅に出る。


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  採荼庵の芭蕉旅立ち像
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 「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」。芭蕉庵に新しく住む人は、女の子がいるとか。〈草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家〉。「おくの細道」冒頭の句は、芭蕉庵から始まる。

 芭蕉が深川に居を移す20年前、両国に橋が架かる。本所・深川の開発はここから始まった。時の将軍は4代家綱。家康はとうの昔に亡い。両国と家康の収まりが悪いのは、時代が合わないからだ。

 両国橋が架かっても、深川はまだ辺鄙な土地だった。江戸と深川が直接結ばれるのは、1693(元禄6)年に新大橋が架橋されて以降のこと。深川のシンボル八幡様と江戸が永代橋で結ばれるのは、さらに1698(元禄11)年まで待たねばならない。芭蕉がすべてを捨てて深川に隠棲し、芸術を極めようとした覚悟は、こんな歴史を知ることではじめて実感できる。

バラと都電 《 観ずる東京23区 その15 》

《 観ずる東京23区 その15 》





     バラと都電




           東京23区研究所 所長 池田利道






英国仕込みの洋風庭園

 東京には、財閥の名を冠した庭園が少なくない。文京区湯島の旧岩崎邸庭園。両国国技館と隣り合う旧安田庭園。飛鳥山公園の中には旧渋沢庭園。同じ北区西ケ原の旧古河庭園。それぞれがそれぞれの魅力に富むが、なかでも旧古河庭園は東京有数のバラの名所として知られている。

 旧古河庭園は、洋館、洋風庭園、日本庭園の3つの要素で構成される。このうち、洋館と洋風庭園を設計したのは、鹿鳴館やニコライ堂などを手がけ、わが国近代建築の基礎を築いたジョサイア・コンドル。コンドルは生粋のロンドンっ子だったと聞くと、洋風庭園のテーマにバラを選んだのも納得できる。

 斜面をうまく活用したテラス式のバラ園をはじめ、庭内に咲き誇るバラは180株。数は決して多くないものの、大輪の花は見応えにあふれる。英国貴族の邸宅を模した、石造りの洋館とのハーモニーも見事だ。バラは春と秋の年2回楽しめる。春は春の、秋には秋の趣が庭園を埋め尽くす。


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    旧古河庭園のバラ
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13,000株のバラ

 旧古河庭園の最寄り駅は、JR京浜東北線の上中里か地下鉄南北線の西ケ原。どちらからでもひと駅の王子で、都電荒川線に乗り換える。目指すのは三ノ輪方面。「ちんちん」という懐かしい音を響かせながら、電車はほんの数分で荒川区に入る。

 荒川区は、区の中央を横断する都電荒川線を「みどり軸」と位置づけ、1985年から都電沿線のバラ植栽事業をスタートさせた。今では、区内総延長4.8kmの8割を超える約4kmの区間に13,000株を超えるバラが植えられ、季節になると色とりどりの花がまちを彩っている。

 バラの管理には区民の力が欠かせない。区の呼びかけに応えて2003年に発足した「荒川バラの会」は、自主的にバラを世話するボランティアグループだ。荒川遊園地前停留場から遊園地入口までの道路脇に続くバラの花壇も、「荒川バラの会」の活動成果である。

 華麗というイメージが浮かぶバラの花。都電との組合せは、いささか不思議にも思えるが、カッタンコットンとのんびり下町を走る都電は、沿線のバラの花と絶妙な調和を醸し出している。




意外なところに都電の名残り

 東京で最初の路面電車が開通するのは1903(明治36)年。当初は民営3社(のち1社に合併)による私鉄だったが、1911(明治44)年に旧東京市が買収して「市電(後の都電)」となる。その後も路線網の拡大が進み、関東大震災前の1919(大正8)年には1日の乗客数が100万人を超える。「東京の名物満員電車 いつまで待っても乗れやしねえ 乗るにゃ喧嘩腰いのちがけ」と唄われたのはこの頃のことだ。ちなみに、大正以降も民営会社による路面電車の開業は続く。荒川線は、明治末~昭和の初めにかけて王子電気軌道が敷設し、1942(昭和17)年に市電に統合されたものである。

 都電が最盛期を迎えるのは昭和30年代の半ば。路線網は41系統、213kmに及んだ。しかし、モータリゼーションが進むにつれて、都電は邪魔者扱いされるようになる。こうして1972年までに、荒川線を除くすべての路線が廃止されていく。1日の乗客数は、1960年の164万人に対し、1965年125万人、1970年37万人。1975年には8万8千人にまで急減する。

 とはいっても、都電の名残りは様々なところに残されている。例えば、線路の幅を指すゲージ。世界標準は1,435㎜だが、JRは新幹線を除き1,067㎜の狭軌を採用している。このため、東京の私鉄や地下鉄も狭軌が多い。ところが、京王本線のゲージは1,372㎜。これは都電と同じ幅。かつて伊勢丹前をターミナルとしていた京王本線が、都電との相互乗り入れを目指した名残りである。

 新宿区役所横の遊歩道「四季の路」は一見旧河川敷のようだが、幾何学的なS字カーブがどこか人為的だ。それもそのはずで、ここは都電の軌道跡である。亀戸駅南の「亀戸緑道公園」も都電敷の跡。竪川を渡る「竪川人道橋」は、かつては都電専用橋だった。橋の路面に置かれたレールのモニュメントに、今は気づく人も少ない。


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  竪川人道橋レールのモニュメント
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ちんちん電車かLRTか

 時代は下って21世紀。コンパクトシティへとまちづくりの舵を切り直したわが国に、欧米からLRT(ライトレール)なるものが直輸入される。東京でも、荒川線の北千住延伸、池袋駅とサンシャインシティを結ぶ路線、亀戸駅と新木場駅を繋ぐルートなど、LRTの導入に熱い視線が注がれている。

 LRTを直訳すると中量軌道交通。だがわが国では、定時性、速達性、快適性、安全性、さらには低床に代表される福祉性等の概念がつけ加わった次世代都市内交通との意味合いが濃い。

 では、LRTと路面電車はどこが違うのか。荒川線の定員は、大型車両では100人近くにのぼる。ラッシュ時には2~5分おきに運転され、定時性にも優れる。バスと比べるとはるかに快適で、安全でもある。福祉性は、交通体系ではなく車輌の問題だ。

 となると、路面電車とLRTを分けるのは速さになる。12.2kmを53分かけて走る荒川線の平均時速は14㎞/h。最高速度は40km/h。わが国のLRTの先駆的導入事例とされる富山市のポートラムの最高速度は60km/h(設計速度は70km/h)。なるほど速ければ便利だ。しかし、コンパクトシティへの発想
の転換とは、ひたすらに利便性を追い求めることへの反省ではなかったのか。

 「ちんちん」というベルは、運転士と車掌との合図だった。ワンマンカーになった今も、この音を守り続けているのはゆとり。だから愛され続けている。「もっとまちを楽しむゆとりを持とうよ」。ちんちん電車はそういいながら、バラの中を走り去っていった。


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  都電とバラ
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照姫から新選組まで  《 観ずる東京23区 その14 》

《 観ずる東京23区 その14 》
 

 

        照姫から新選組まで
 

 

                  東京23区研究所 所長 池田利道
 

 

大きかった豊島

 郵便番号を書かず、住所も東京都を抜いていきなり千代田区から書き始めても、おそらく手紙は届く。だが、中央区なら届かない。政令指定都市の行政区にも中央区があるからだ。その数、東京都中央区を含めて10か所。北区はもっと多くて12か所。港区も大阪市と名古屋市にある。

 ちなみに、区名で一番多いのは南区の13か所。他にも、西区が12か所、東区が9か所、中区が6か所。方位なら反対の声があがりにくいのかも知れないが、いささか個性に欠ける。

 東京23区の区名は、他の大都市と比べるとオリジナリティに富む。文京や大田など新しく造語したものもあれば、品川、板橋、目黒などのように歴史の重みをもった由緒正しき区名も多い。なかでも飛びきり由緒が正しいのは、葛飾と豊島だろう。

 かつて葛飾は、東京だけでなく埼玉県から千葉県、さらには茨城県の一部にまでまたがる広大なエリアの名称だった。今でも埼玉県には北葛飾郡があるし、2005年に沼南町が柏市に合併されるまでは、千葉県にも東葛飾郡があった。

 豊島も負けてはいない。現在の豊島区の面積は東京23区の2%に過ぎないが、かつては23区のおよそ3分の1が豊島と呼ばれていた。町名としての豊島が、豊島区ではなく北区にあるのはこの名残りである。豊島は今よりはるかに大きかったのだ。


照姫哀歌

 中世、豊島一帯を領有していたのは豊島氏。その最後の当主が豊島勘解由左衛門尉泰経。居城の石神井城は、石神井公園の三宝池寺と石神井川に挟まれた小高い台地の上にあった。

 時は戦国時代の初め。豊島泰経は、江戸に勢力を伸ばしてきた大田道灌と正面衝突する。熾烈な戦いを制したのは道灌。石神井城落城を前に、泰経は黄金の鞍を置いた愛馬と共に三宝寺池に身を投じる。泰経の次女照姫も、父の後を追うように三宝寺池に身を沈めた。史実は諸説を唱えるが、心優しい豊島の人々は、悲しき『照姫伝説』を代々語り続けていく。

 絶好の行楽日和に恵まれた4月28日。照姫伝説をモチーフにした「照姫まつり」が、練馬区の石神井公園を舞台に華やかに繰り広げられた。最大の見どころは、照姫、泰経、奥方の3台の輿を中心に、総勢100名が絢爛豪華な室町衣装に身を包み、商店街を練り歩く時代行列。今年で26回目を迎えた、練馬の春の名物イベントである。


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  照姫まつり
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 三宝寺池ほとりの丘の上には、照姫を祀ったと伝えられる姫塚と泰経を祀る殿塚が、木立の中にひっそりと眠っている。多くの人出で賑わう「照姫まつり」の当日でも、ここまで足を運ぶ人はほとんどいない。


新選組参上!

 同じ4月28日のJR板橋駅前。板橋駅は、名前は板橋ながら、板橋区、豊島区、北区の区境に位置し、東口は北区滝野川にある。駅の前には永倉新八が建立した新選組局長近藤勇の墓。鳥羽伏見の戦いで敗走し、甲府勝沼でも官軍に敗れた近藤は、千葉流山で捕えられ、1868(慶応4)年4月25日、板橋駅の近くで斬首される。

 この史実に因む「滝野川新選組まつり」は、新選組装束をまとった隊士たちによる市中見回りあり、殺陣パフォーマンスあり。ともかく楽しいお祭りだ。各地から集まった出演者たちの楽しそうな顔が、祭りの醍醐味を何よりも雄弁に物語っている。新選組パフォーマーの面々は、全国の新選組まつりを股にかけて参加するらしい。


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  滝野川新選組まつり 隊士市中見回り
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  滝野川新選組まつり 殺陣パフォーマンス
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 判官びいきの日本人は、美しく散った悲劇の主人公に弱い。照姫にも新選組にも、同じ傾向が見て取れる。女性パフォーマーが多いのもそのせいに違いない。


祭りを支える裏方たち

 2週間前の4月13日には、裏浅草の小松橋通りを「江戸吉原おいらん道中」が彩っていた。花魁もまた、華やかさの陰に悲しみを秘める。

 「江戸吉原おいらん道中」を中心となって担うのは、小松橋通り沿いの「浅草観音うら 一葉桜振興会」。2006年に設立されたこの新しい商店街は、小松橋通りに八重桜(一葉桜)を植樹し、桜の季節に「おいらん道中」を始めたことかがきっかけとなって誕生する。


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  江戸吉原おいらん道中
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 「滝野川新選組まつり」の主催者は、地元の5つの商店街の連合体。今や全区あげてのイベントとなった「照姫まつり」も、底辺を支えているのはやはり地元の商店街である。

 商店街はなぜ必要か? 買物の便利さだけを考えると、答はなかなか難しい。商店街がなくなっても、スーパーやコンビニがあればさほど困ることはない。だが商店街は、地域のコミュニティを支えるという、目には見えない大きな役割を果たしている。祭りだけではない。平日の昼間、大地震に襲われたら・・・。郊外住宅地で頼りになる男手は、商店街くらいにしかいない。防犯の面でもまた然り。街路灯ひとつとってもそうだろう。東日本大震災の後、商店街の灯の有難さを身にしみて感じた。

 シャッター通りが全国で深刻化している今日、東京にはまだまだ元気な商店街が数多く残る。それは、経済合理主義だけでは説明がつかない、東京の大きな利点である。そう考えると、祭りが一層楽しくなった。

さよなら同潤会アパート 《 観ずる東京23区 その13 》

《 観ずる東京23区 その13 》


    さよなら同潤会アパート
 
 
 
          東京23区研究所 所長 池田利道





昭和ヒトケタのハイカラタウン

 東京23区の総住宅戸数のうち、63%がRC造(SRC造やS造を含む)の共同住宅。木造一戸建は21%だから、東京ではマンション族が圧倒的な多数派だ。

 RC造集合住宅*1が東京で最初に登場するのは1923(大正12)年のこと。江東区の旧・東京市営*2(後・都営)古石場第一住宅である。だが、計画的にRC造集合住宅の建設に取り組み、その後の普及の礎を築いたのは同潤会アパートだった。

 関東大震災からの復興を図る中で、住宅供給の担い手として設立された同潤会は、1926(大正15)年から1934(昭和9)年にかけて16か所のRC造アパートを建設していく。同潤会アパートが目指したのは、都市中間層向けの良質な住宅の供給だった。しかし、当時の一般庶民にとって、最新鋭のRC造住宅は高嶺の花。同潤会アパートには、ワンランク上の人しか住むことができなかった。建設場所の選定にも、当然その傾向が反映されている。

 東京23区内の14の同潤会アパート(残る2か所は横浜市)の内訳は、渋谷区が2か所、千代田、港、新宿、文京が各1か所。対して、江東区3か所、墨田区と荒川区が各2か所、台東区1か所。もう少し詳しくいうと、京浜東北線と明治通りの間に8か所がかたまっている。昭和ヒトケタの時代には、どこがあこがれのハイカラタウンだったかを知ることができるだろう。
 
*1厳密に定義すると、共同住宅と長屋を合わせたものを「集合住宅」という。
*2東京市については、[「東京市」って?〈 23区のトリビア 〉]を参照。


最後の同潤会アパート

 同潤会アパートは、近年相次いで解体が進み、現存するのは上野下アパートただ1か所となった。この最後の同潤会アパートも、今年5月には取り壊され、14階建てのマンションに生まれ変わるという。

 稲荷町駅のすぐそば。黄土色の外壁をもつ4階建ての建物が、1929(昭和4)年に建てられた同潤会上野下アパートである。外壁には補修の跡もみられるが、築84年の古さを感じさせない。

 前庭のある西棟は、1~3階が家族向け、4階が独身者向け。家族向けは階段室型の住戸配置であるのに対し、独身者向けは中廊下型。4階部分が出っ張っているのはそのためらしい。

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 同潤会上野下アパート西棟
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 東棟は、清洲橋通りに面する1階部分に4戸の店舗併用住戸が設けられている。見上げなければ、古いアパートの一画だとは気づかない。前庭も店舗もすっかり周辺の風景に溶け込んでいる。地域調和の思想が、この建物の根底にある。西棟4階のオーバーハングも自己主張を感じさせない。昭和の初めの設計者の腕に改めて感服する。

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  同潤会上野下アパート東棟
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木造長屋はまだ現役

 日暮里駅の南。尾久橋通り沿いに建つ28階建てのリーデンスタワーは、同潤会鴬谷アパートの再開発によって誕生した。再開発の歴史を記録した「東日暮里5丁目地区第一種市街地再開発事業誌」によると、鴬谷アパートにはガス、水洗トイレ、ダストシュートが配備され、床は畳ではなくコルクに薄縁を敷いたものだったとか。居住者は選ばれたエリート層で、敷地内に植えられた椿にちなんで「椿御殿」と呼ばれ、人々の羨望を集めたという。

 荒川区の東日暮里地区は同潤会住宅の宝庫だ。2丁目のカンカン森通り沿いにあった三ノ輪アパートはマンションに建て替わったが、お隣の3丁目には同潤会住宅が現役で残る。不良住宅地区改良事業によって、約170戸の2階建て木造長屋が整備された日暮里共同住宅である。完成は1938(昭和13)年。75年の歳月を経た今も、当時の姿を残す建物が並ぶ。

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  同潤会日暮里共同住宅
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被災地に銭湯を!

 同潤会巡りの途中で、同じものに出合った。日暮里共同住宅のすぐそばに雲翠泉。上野下アパートと背中合わせの場所には寿湯。そう、銭湯だ。

 内風呂がごく当たり前の今日、銭湯は急速に姿を消しつつある。「おかみさ~ん、時間ですよ~」の『時間ですよ』が放映を始めるのは1970年。その直前の1968年には23区内で2,400店を超えていた銭湯は、2013年4月現在約650店(休業中を除く)に減少している。それでも人口1万人(概ね小学校1学区に相当する)あたりの店舗数は23区平均で0.7店。台東区では1.7店、荒川区では1.5店を数える。2009年の全国平均が人口1万人あたり0.3店であることと比べると、時代の最先端を走る東京は、同時に過去を持続し続けるまちであることが分かる。

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  上野下アパート裏の寿湯
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 銭湯と同潤会。この2つは決して偶然の一致ではない。関東大震災後の仮設住宅建設から事業をスタートさせる同潤会は、集会所、商店街、銭湯、医療施設、授産施設などを住宅とセットにして供給していく「哲学」を基本としていた。人間の生活には何が必要かを計画の出発点にしたのだ。

 東日本大震災の被災地に建てられた仮設住宅は、あたかもプレハブメーカーの在庫処分場のようだ。この無機質な空間の中で、多くの人々が不自由な生活を強いられ、そして孤独死の悲しい報せが続く。

 文字どおり裸で悩みや愚痴を語り合い、その後の一杯の酒で心と身体の疲れを洗い流す。「被災地に銭湯を!」と、ジョークではなく本気に考える。技術は進歩するが、人の心は退化する。そう言われないためにも、昭和の初めの人たちの心を学び直す必要がある。

公園はじめて物語  《 観ずる東京23区 その12 》

《 観ずる東京23区 その12 》


          公園はじめて物語

 


              東京23区研究所 所長 池田利道

 
 

葉桜の季節

 「太い川がながれている。川に沿って葉桜の土手が長く道をのべている。こまかい雨が川面にも桜の葉にも土手の砂利にも音もなく降りかかっている。ときどき川のほうから微かに風を吹き上げてくるので、雨と葉っぱは煽られて斜になるが、すぐ又まっすぐになる。」

 幸田文『おとうと』の冒頭である。声に出して読みたい日本語だ。

 向島で生まれ育ち、浅草から市電に乗って麹町の女子学院に通った幸田文は、毎朝隅田川の土手を下った。今同じ場所に立って葉桜を見上げると、菜種梅雨の空にスカイツリーが烟っていた。


吉宗と桜

 江戸時代、花見の名所は上野寛永寺。ところが、将軍家の菩提寺だから何かと格式が高い。歌や踊りはご法度。ナマグサ(魚)もダメ。夕方になると、門が閉められ追い出されたという。そこで八代将軍徳川吉宗が、隅田川の堤に桜の樹を植え、庶民に行楽の場を提供する。「げに一刻も千金」と詠われた墨堤の桜の始まりである。

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  墨堤の葉桜
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 吉宗が植えたもうひとつの桜の名所が北区王子の飛鳥山。王子の名は、紀州熊野の若一王子権現に由来する。故郷ゆかりの地に愛着をもった吉宗は、享保5(1720)年から翌年にかけて、一面の松林だった飛鳥山に1,270本の桜を植樹し、広く江戸市民に開放した。併せて、音無川沿いに水茶屋の営業を許可したことから、飛鳥山は江戸随一の花見のメッカとなる。王子では石神井川を音無川と呼ぶのも、紀州の音無川になぞらえた吉宗による命名だとされる。

 上野と異なり、飛鳥山では飲めや歌えのバカ騒ぎが許された。仮装パフォーマンスに趣向を凝らす目立ちたがり屋もいたようだ。「まだ勝負は五分と五分ぞ」、「肝心の六部が来ません」で落ちる『花見の仇討』は、そんな飛鳥山の花見を舞台にしている。

 飛鳥山は、葉桜の季節になっても桜を楽しむことができる。ちょうどその頃、約200本の八重桜が咲き乱れるからだ。統一した美しさが続くソメイヨシノに対し、八重桜はそれぞれの樹々が個性を主張し合う。その様は、まさに絢爛と呼ぶにふさわしい。

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  飛鳥山公園 八重桜のトンネル
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140年かけて15倍

 飛鳥山公園は、わが国最初の公園のひとつでもある。明治6(1873)年の太政官布告に基づき、東京に浅草、上野、芝、深川、飛鳥山の5つの公園が指定される。「公園」という言葉自体が、この太政官布告で初めて使われたという。

 指定された5つの公園の広さは、合わせて52万坪(172ha)。現在の東京23区の都市公園面積はおよそ2,580ha。近代都市建設がスタートを切って以降、140年かけて15倍にしか増えていない。

 公園の整備水準を測る指標として、1人あたりの都市公園面積がよく使われる。都市公園法による標準は10㎡以上、市街地では5㎡以上だが、東京23区では2.9㎡。海上公園や児童遊園などを総動員した総公園面積(ただし、自然公園は除く)でも4.3㎡にとどまる。東京23区と19の政令指定都市を合わせた20大都市の平均は都市公園が6.5㎡、総公園が8.1㎡だから、他の大都市と比べても、東京の公園は半分程度に過ぎない。

 では、面積(総面積から山林や湖沼を差し引いた可住面積)あたりではどうだろうか。都市公園は、20大都市の平均3.6%に対し、東京23区は4.2%。総公園では4.4%対6.3%で、他の大都市より1.5倍近く多い。データによって、東京の公園は少なくなったり多くなったりする。統計のマジックといえるだろう。


世界最初の公園

 「140年で15倍」にはもう少し注釈が要る。いずれも寺社の境内をそっくりそのまま公園に指定したという、いささか乱暴な施策だった。公園と境内が分離された今日、5公園の面積自体が大きく縮小している。

 浅草公園は影も形もない。公園を7つの区に分けた6番目に由来する「六区」の名が、わずかに残るだけだ。深川公園は4分の1ほどに縮まり、地元の人たちが憩う近隣公園に姿を変えた。芝公園は、芝公園1~4丁目の全部が公園だったというイメージだし、上野公園も今よりはるかに大きかった。

 そんな中で、飛鳥山公園だけは面積が増えている。園内には、3つの博物館や渋沢栄一邸跡の旧渋沢庭園など見どころが多く、四季を通じて訪れる人が絶えない。

 とはいっても、飛鳥山はやっぱり桜。特に八重桜は種類が豊富だ。大輪の花をつける福禄寿、濃い紅色が鮮やかな関山、雄しべが象の鼻のような形をした普賢象、緑の花が目を引く鬱金、淡い緑からピンクへと色を変える御衣黄などなど。個人的な好みなら、青淵文庫の前に咲く松月がいい。薄紅色の花からは、穏やかな気品が漂ってくる。

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  飛鳥山公園 青淵文庫前の「松月」
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 日本最初の5つの公園のうち、飛鳥山はそもそも庶民のための遊園として整備された。王子権現に寄進されたのは、その後のことである。ヨーロッパで都市公園の整備が始まるのは19世紀の半ば以降。だとすれば、飛鳥山は世界最初の公園だということもできる。

 元禄バブルの後始末に追われ、増税と倹約を世に強いた吉宗。その吉宗が桜の樹を植えたのは、庶民の不満のガス抜きだけではない。彼の事績を紡ぎ合わせていけば、人の心を理解できるリーダーの姿が浮かび上がってくる。それは、今の政治家に一番欠けているものなのかも知れない。