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冬の花便り 《 観ずる東京23区 その9 》

《 観ずる東京23区 その9 》


     冬の花便り
  
        東京23区研究所 所長 池田利道       
  
                        

凛と咲く花

 この冬は寒い。そう感じるのは、歳のせいばかりではなさそうだ。気象庁のデータをみると、昨年12月の東京の平均気温は7.3℃。平年を1.4度も下回っている。1月も5.5℃で、平年より0.6度低い。

 寒いと、どうしてもうつむき加減にまちを駆け抜けてしまう。「観ずる」ゆとりも生まれてこない。そんなとき、ほんのりと心を暖めてくれるのが、寒さに耐えて咲く花の姿。寒い寒いと閉じこもっていないで、冬の花を探しに行こう。


つぼみ、陽ざし、力

 日本一の大観覧車と雄大なマグロの群泳が人気の葛西臨海公園。東京随一の水仙の名所でもある。観覧車の足元に、20万本のニホンスイセン畑が広がる。今年は開花が遅れ、2月の中旬になってもまだ5分咲きといったところだが、5分を見て満開を想うのも、また一興を誘う。 〈水仙の いつまでかくて 莟かな 子規〉。

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 葛西臨海公園水仙畑
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 鮮やかな黄色のラッパスイセン。内側の花びら(副花冠)が、色も形もハデハデしいセイヨウスイセン。対してニホンスイセンは白が基調。副花冠も上品な黄色だ。わが国固有種ではないそうだが、「うぬぼれ」の花言葉の元になったのはセイヨウスイセンの方だろうと、勝手に納得したくなる。

 港区の自然教育園には、福寿草がひっそり咲いていた。6万坪の全域が天然記念物に指定され、武蔵野の自然が今も残るここならば、福寿草に出合えるに違いないとの読みがズバリと当たる。

 陽が陰ると花をすぼめるのは、虫を誘う熱を逃がさないようにするためらしい。淡い陽ざしの中に咲く、冬の花ならではの進化の妙といえるだろう。 〈福寿草 影三寸の 日向哉 子規〉。

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 自然教育園に咲く福寿草
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 寒椿を求めて訪れた小石川植物園。メンデルのブドウの樹、ニュートンのリンゴの樹、精子発見のイチョウの樹などが有名だが、ツバキ園も隠れた人気スポットである。ところが、ツバキ園は冬まっ只中。花が咲いているのはごく一部で、大方は花芽が固い。「ツバキは木偏に春と書くのだから無理もない」。そう諦めて帰りかけた正門の近くに、寒椿の花が待っていた。

 自然教育園もそうだったが、冬の植物園は訪れる人がほとんどなく閑散としている。そんなことを気にする風もなく、寒椿は精一杯咲いていた。 〈寒椿 力を入れて 赤を咲く 子規〉。

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 小石川植物園の寒椿
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TOKYOを支える江戸の遺産

 葛西臨海公園は、埋立地の区画整理により、平成の世になって生まれた。一方、小石川植物園の歴史は、江戸時代まで遡る。当初は、5代将軍綱吉が館林藩主だった頃の白山御殿。その後、小石川御薬園を経て、吉宗の時代に小石川養生所となる。山本周五郎『赤ひげ診療譚』の舞台である。

 文京区には、大名屋敷をルーツとする施設が多い。東大は加賀前田家の上屋敷。後楽園は水戸徳川家の上屋敷。六義園は大和郡山柳沢家の下屋敷。教育の森公園(旧・東京教育大学)は福島守山藩松平家の下屋敷等々だ。

 大名屋敷となれば、港区の方が本場。自然教育園は高松松平藩の下屋敷。東宮御所や迎賓館を抱える赤坂御用地は紀伊徳川家中屋敷。東京都立中央図書館がある有栖川宮記念公園は、公園横の南部坂の名のとおり盛岡南部家の下屋敷。旧芝離宮庭園は小田原大久保家上屋敷(後に紀伊徳川家下屋敷)。青山霊園は美濃郡上八幡青山家下屋敷。慶応大学は島原松平藩中屋敷。六本木の国立新美術館は宇和島伊達藩上屋敷。数えあげれば切りがない。

 話題のトレンディスポットも、歴史を追えばそのほとんどが大名屋敷に辿りつく。

 汐留シオサイトは仙台伊達家、会津松平家、播磨龍野脇坂家の屋敷跡。赤坂サカスは広島浅野家中屋敷。ミッドタウンは長州毛利家中屋敷などなど。六本木ヒルズは密集市街地の再開発だが、最大の地権者であったテレビ朝日は、長府毛利家の上屋敷跡に建っていた。天気予報でお馴染の毛利庭園は、毛利といっても分家の方だったのだ。


「豊かさ」の違い

 東京23区の緑被率は20%強。大阪市の2倍を超える。横浜市はおよそ30%だが、緑区、栄区、泉区などの郊外区が数字を稼ぎ、都心の緑は多くない。これに対して東京23区の緑被率は、ベスト3こそ練馬、世田谷、杉並の郊外区が並ぶものの、4位渋谷区、5位港区、6位千代田区、8位文京区と都心の緑が多い。この数字に、大名屋敷にまで遡る江戸の遺産が示されている。

 もっとも、江戸の町人地は15%程度。そこに人口の半分が住んでいたというから、庶民にとっては超過密都市だった。落語の定番である裏店の長屋は9尺2間。つまり、たったの3坪(畳6枚分)。おまけに隣との境は薄板1枚。プライバシーなどあったものではない。その代わり、近所の助け合い精神はピカイチだった。

 江戸のまちと現代の東京。どちらが豊かかは一概に評価できない。少なくともいえることは、江戸の庶民は狭い家を決して苦にしていなかったことだ。それは諦めではなく、彼らなりに積極的に評価すべき価値観があったからに他ならない。

 水仙から始まって江戸のまちまで、話が大きく脱線してしまった。まあ、いいか。「水仙も、江戸のまちも、どちらもシロが基本です」。お後がよろしいようで。