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アニメの聖地 《 観ずる東京23区 その26 》

 《 観ずる東京23区 その26 》


           アニメの聖地




                       東京23区研究所 所長 池田利道




クール・ジャパンとKokkaiseimon


 最近「クール・ジャパン」なる言葉をよく耳にする。経済産業省には「クール・ジャパン室」もあるそうだ。温暖化が進み過ぎたので、日本全体を冷やそうというのではない。ゲーム、アニメ、Jポップなど日本のポップカルチャーを海外にPRし、日本独自の文化産業の世界的なビジネス展開を図るとともに、外国人観光客を呼び込もうとする取組みらしい。

 「クール」とは、アメリカのスラングで“かっこいい”という意味。日本のよさを紹介する施策が何でアメリカのスラングなのかは、イギリスの「クール・ブリタニカ」のパクリに由来するから。何ともかっこう悪いとため息が出るが、横文字の方がかっこいいと思う人も多いのだろう。

 そういえば先日、道路標識をローマ字表記から英語表記に切り替えるとのニュースが話題になった。「国会正門前」は、“The National Diet Main Gate”に改められるとのこと。しかし、道路標識は交差点名という地名を示しているのであって観光案内ではないのだから、日本語のローマ字表記で何の問題もない。“Kokkaiseimon”がダメというのであれば、地下鉄駅の国会議事堂前は“The Diet Building”に、虎ノ門は“Tiger Gate”になってしまう。


いずれ劣らぬアニメのまち

 血圧が上がりそうなので先に進もう。クール・ジャパンのメインコンテンツは、何といってもアニメ。アニメの舞台となった場所を訪ねる「聖地巡礼」に、国も地方も熱き視線を注いでいる。

 練馬区、杉並区を中心とする東京23区の西北部一帯は、アニメの一大聖地だ。日本には約200社のアニメ制作会社があるが、このうちの半数近くが練馬区に、3分の1以上が杉並区に集まっている。


 西武新宿線を上井草で降りると、駅前にガンダムのモニュメント。ガンダムシリーズを制作するサンライズ社をはじめ、上井草には多くのアニメ関連会社が立地する。ガンダム像は、区、地元商店街、サンライズ社、西武鉄道のスクラムが生んだアニメのまちのシンボルである。

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  上井草駅前のガンダムモニュメント
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 上井草と荻窪の真ん中あたりにある杉並アニメーションミュージアムは、日本で最初のアニメの総合博物館だ。様々な体験が楽しめる参加型展示を特徴とする。入館料無料も嬉しい。

 アニメのまちとなると、練馬区も負けてはいない。何しろここは日本のアニメ発祥の地である。1958(昭和33)年に、わが国最初のカラー長編アニメ映画『白蛇伝』を制作したのが大泉の東映動画(現・東映アニメーション)。テレビの方も、国産初の連続長編アニメ『鉄腕アトム』が、1963(昭和38)年に富士見台の虫プロダクションで産声をあげる。

 練馬区には多くの漫画家たちが居を構え、ここを舞台とした作品も多い。区もアニメのまちづくりに熱心だ。アニメのフェスティバル「アニメプロジェクトin大泉」は、今年で10回を数える。大泉学園駅には、地元在住の松本零士作『銀河鉄道999』に登場する「車掌」の像が立ち、発車の合図に『銀河鉄道999』のメロディが流れる。

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 大泉学園駅の車掌像
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すべては、ひとりの天才から始まった

 日本のアニメがかくまで隆盛していった背景には、ひとりの天才の存在を忘れることができない。手塚治虫である。手塚を慕う多くの若き英才たちが集い、「漫画家の梁山泊」といわれたトキワ荘は、西武池袋線椎名町駅の南、豊島区南長崎にあった。藤子・F・不二雄、藤子不二雄○A、石ノ森章太郎、赤塚不二夫・・・。日本アニメのパイオニアたちが、ここから巣立っていく。

 ときわ荘の跡地には、当時の建物を摸したモニュメントが立つ。近くの公園にある「トキワ荘のヒーローたち」の記念碑や、下積み時代の漫画家たちが通ったラーメン「松葉」が聖地に華を添える。

 手塚がトキワ荘に住んだのは、1953(昭和28)年から翌54年にかけてのほんの短い間だけで、入居時期が重なるのは『スポーツマン金太郎』の寺田ヒロオくらい。両藤子不二雄は手塚が引っ越した後の部屋に入る。石ノ森や赤塚が入居するのはさらにその後。ただし、手塚は退去時に部屋の敷金をそのままにしておいた。若き才能を育んでいこうとする手塚の思いがトキワ荘を支え、やがて日本アニメの大きな成長へと繋がっていったのだ。

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  トキワ荘跡地
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聖地の中の聖地

 トキワ荘を出た手塚治虫が次に住んだのは雑司が谷。鬼子母神参道のけやき並木に面する「雑司が谷案内処」の裏に建つ並木ハウスだった。「雑司が谷案内処」には、並木ハウスでの作業風景を描いた手塚のスケッチが展示されている。

 「さあ帰ろう」と高田馬場で電車を待っていたら、アトムのメロディが聞こえてきた。高田馬場駅前のJRと西武線のガードには、手塚キャラクターの大壁画。2003年4月7日、アトムは高田馬場にある科学省精密機械局で生まれる。これぞまさに、聖地の中の聖地である。

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  高田馬場手塚キャラクターの壁画
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 たかがアニメ、されどアニメ。アニメをきっかけに日本語を学び始めたという外国人は多い。そんなアニメに光を当て直したのは、クール・ジャパンの大きな功績である。だがその一方で、悪乗りし過ぎの面も否定できない。コスプレもクール・ジャパンというのは笑って済ませるが、怪しげな和食を正す「食の伝道師」となると首をかしげる。ラーメンもカレーもナポリタンも、本場からみれば怪しげな料理だ。超怪しげなトルコライスなるものもある。しかし大人の国は、いちいち目くじらを立てない。食文化とは、そんなものだと分かっているからだろう。

 文化は官製になった途端に、ろくでもないものに姿を変えてしまう。もう止めておこう。また血圧が上がりそうだ。

水道の水を産湯に浴びて 《 観ずる東京23区 その25 》

 《 観ずる東京23区 その25 》


          水道の水を産湯に浴びて




                       東京23区研究所 所長 池田利道




江戸の井戸は水道

 「金の魚(しゃち)虎(ほこ)をにらんで、水道の水を産湯に浴びて、御膝元に生まれ出ては…」。山東京伝の洒落本『通言総籬』は、粋でいなせな江戸っ子の姿をこんな書き出しで謳いあげた。読み進むと、「隅水の鮊も中落を喰ず」の一節。隅田川で獲れた白魚も、脂っこい中落ちなんて食べなかった。大トロに舌鼓を打っているようでは、江戸っ子失格ということか。

 それはさておき、今回のテーマは「水道の水を産湯に浴びて」のくだり。時代劇では、長屋の井戸端でおかみさんたちがお喋りに夢中という場面をよく目にする。あれは井戸ではなく水道。井戸を掘ってもしょっぱい水しか出てこない江戸のまちには、水道網が完備されていた。

 最初の本格的な水道は、1630年ごろ(寛永年間)に完成した神田上水。文京区関口に設けられた大洗堰で取水し、水戸屋敷(現・小石川後楽園)を経た後、地中に埋められた「樋」と呼ばれる送水管で江戸市中に配水した。いきなり難関の神田川越えは、川の上に「懸樋」を通す。場所は、もちろん水道橋である。ちなみに、今では全部神田川だが、かつては関口より上流は神田上水、関口~飯田橋を江戸川、飯田橋から下流を神田川と呼んだ。

 文京区の本郷給水所公苑には、発掘された神田上水の石樋が復元・移築されている。石の樋は幹線用で、支線には木の樋が用いられた。お隣の東京都水道歴史館に行くと、木樋や水道を流れてきた水を溜めて汲み取るための「上水井戸」の実物も展示されている。


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  神田上水石樋
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蛇口をひねるとミネラルウォーター

 神田上水の水源は井の頭池。加えて、いくつかの補助水源があった。なかでも、質・量ともに優れ、単なる補助水源というよりは副水源と呼ぶにふさわしいのが善福寺の池だ。なかなか水が出なかったという頼朝の故事にまつわる遅の井は泉が涸れてしまい、今は地下水を汲み上げて流している。逆からみれば、地下水はまだまだ豊富だということ。善福寺川を1kmほど下った原寺分橋の下では、川底から湧き上がる湧水を見ることができる。

 善福寺上の池の南畔には、井荻のまちづくりの先達となった内田秀五郎の像が立つ。そのすぐ脇に、おとぎ話にでも出てきそうな六角形の可愛らしい建物。同じ建物は、遅の井の手前にもある。フェンスで区切られ、東京都水道局用地の表示。現役の水道用地下水取水井である。

 隣接する杉並浄水所は、汲み上げた地下水を薬品消毒するだけで上水道として供給している。配水量は年間約100万㎥。東京23区の使用水量の0.1%にも満たないものの、それでも家庭用に換算すると1万人分を超える。蛇口をひねるとミネラルウォーターがほとばしるとは、何とも贅沢ではないか。


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  杉並浄水所取水井
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玉川上水三景

 江戸が膨張するにつれ、やがて神田上水だけでは足りなくなる。そこで幕府は、多摩川の水を江戸に直接引き入れる一大プロジェクトを企てる。取水は多摩川上流の羽村。ここから四谷大木戸まで43km。標高差は92mというから、平均すると100mあたりわずか21㎝。しかも、どこからでも分水できるように、流れは尾根筋を選びながら進んでいく。この超難工事がわずか8か月で完成したとは、当時の技術水準の高さを物語って余りある。

 現在の玉川上水は、三多摩地域は開渠で流れるが、東京23区に入ると大部分が暗渠となる。そんな中で、笹塚駅の近くに3か所、玉川上水が姿を現す場所がある。

 西から、環七西側の約100mの区間。笹塚駅南西の約250mの区間。そして、笹塚駅前南の約200mの区間だ。3つの開渠区間はごく近接しているにもかかわらず、その景観は大きく異なる。かつての武蔵野の清流の姿を最もよく残しているのが笹塚駅南西部分。ただし、高いフェンスが川と岸辺を隔てている。環七西側は、川岸に濃い緑が続き沿岸風景に優れるものの、水は淀んできれいとはいい難い。笹塚駅南側は、前二者のような野趣味はなく、住宅地をのどかに流れる小川のイメージ。だが、親水性は最も優れる。微妙な地形の差がそれぞれの趣を紡ぎ出していると思うと、川が生きていることが手に取るように実感できる。


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  玉川上水(環七西側)
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  玉川上水(笹塚駅南西部)
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  玉川上水(笹塚駅南部)
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東京は節水都市

 東京23区の使用水量を給水人口で割ると、1人1日約340ℓ。400ℓを超える大阪市よりは少ないが、300ℓ前後の名古屋市や横浜市を上回り、265ℓの福岡市と比べると3割近くも多い。

 水道で使う水のうち約3割をトイレ用水が占める。東京に流入する膨大な昼間人口もトイレを使う。飲食店も多量に水を消費する。給水人口は夜間人口ベースだが、昼間人口で割った方が水使用の実態を知るには適しているとの説もある。試みに水使用量を昼間人口で割ってみると、東京23区は260ℓ。横浜市(324ℓ)、大阪市(305ℓ)、名古屋市(275ℓ)を下回り、節水都市のモデルとされる福岡市(237ℓ)に迫る数値となる。

 こんなデータもある。過去15年間で、東京23区の1人あたりの水使用量は14%減。これは全国平均(8%減)の2倍にのぼる。それやこれや考え合わすと、東京は節水の先進地といっていい。

 「湯水のように使う」との言葉があるように、水は天の贈り物と考えられてきた。いや、そうではない。水は貴重な資源だ。武家は石高割で、町民は間口割で水道料金を負担してきた江戸の昔から、東京には水の尊さがDNAとなって息づいている。

 「スカイツリーをにらんで、水道の水を上手に使って…」。山東京伝が現代にタイムスリップしてきたら、『通言総籬』をこう書き替えるかも知れない。

東京ズーランド 《 観ずる東京23区 その24 》

 《 観ずる東京23区 その24 》


          東京ズーランド




                       東京23区研究所 所長 池田利道




橋を守る霊獣

 1807(文化4)年8月19日。12年前の大喧嘩以降中止されていた深川八幡のお祭がようやく復活。待ちに待った江戸っ子たちがドッと繰り出した。その重さで永代橋が崩落する。死者は1,000人とも1,500人とも。財政難によるメンテナンス不足が背景にあったと聞くと、今も背筋が寒くなる。

 人の重みはともかくとして、火事や地震で橋はしばしば破損した。わが国の道路の起点である日本橋も例外ではない。現在の日本橋は1911(明治44)年に竣工したもので、何と19代目。「もうこれ以上架け替えなくてもいい橋を」との願いから、石造二連アーチ橋が採用される。それでも不安だったのだろう。橋に守護神を置いた。

 親柱の上で睨みをきかす、東京市の紋章(現在の都の紋章)をもった獅子。照明灯の支柱の上にも、四方を見渡す獅子がいる。南詰に設けられた一段低い場所から橋の側面を見ると、アーチ頂点にも獅子の顔。合わせて32頭。関東大震災も東京大空襲も撥ね退けた、まさに鉄壁のガード網である。


麒麟のヒレ

 獅子が守りのシンボルなら、麒麟は未来向けての飛躍の象徴。橋の中央にたたずむ4頭の麒麟には、そんな思いが込められている。ただの麒麟ではない。背中に羽がある。

 昨年大ヒットした映画『麒麟の翼』。物語の主要なモチーフとなったのはこの麒麟だ。しかし、実はこれ、翼ではない。では何かというとヒレ。背中にあるから背びれ。『麒麟の背びれ』では何とも様にならないが、事実だから仕方ない。

 日本橋の装飾の総合プロデューサーは津田信夫。獅子と麒麟の製作には、彫刻家の岡崎雪聲・渡辺長男父子があたった。当初は、彼らも翼をイメージしたようである。だが、橋の上という制約から翼ではバランスが取れず、やむなくヒレに落ち着いたという。


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  日本橋の麒麟
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あのライオンは今

 東京ズーランドがいきなり想像上の動物からかい? そういわれそうだ。獅子はライオンが原型と言い訳けしても、狛犬がモデルと聞けば、イヌ科だかネコ科だか分からなくなってくる。

 いや、日本橋には正真正銘のライオンがいる。三越本館正面玄関前の2頭のライオン像。三越百貨店の基礎を築いた日比翁助が、欧米視察時に目にしたロンドン・トラファルガー広場にあるネルソン提督像のライオンを摸したものと伝えられている。

 「百獣の王」ライオン像は、「百貨店の長」を自負する三越の象徴となり、以後各地の支店の玄関を飾っていく。ところで、クローズした店のライオン像はどうなるのだろうか。東京でも、2009年に池袋店が、昨年は新宿店が閉店した。

 新宿店のライオン像は行方を知らないが、池袋店のライオンは向島の三囲神社の境内で余生を過ごしている。三囲の文字は三井を□で守っていることから、三井家は三囲神社を守護社としてきた。今も三井グループには、三囲会なる組織がある。そんな縁がもとになり、池袋三越のライオン像は三囲神社に安住の地を得た。


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  三囲神社のライオン
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神社は動物天国

 三囲神社はお稲荷さん。だからキツネもいる。「コンコンさん」の愛称で親しまれているちょっとたれ目のキツネ像も、越後屋が寄進したもの。台座に「向店」とあるから、支店が奉納したのだろう。

 お稲荷さんのキツネ以外にも、大黒様のネズミ、天神様のウシ、毘沙門様のトラ、弁天様のヘビ、春日明神のシカなど、神社は動物と繋がりが深い。毘沙門様は正しくはお寺だが、七福神のひとつに入っているくらいだから、固いことはいわず先に進もう。

 動物園に無くてはならない存在がサル。おサルさんのいない動物園なんて、動物園じゃあない。

 サルは、神様の世界では山王様のお使い。エスカレーターに乗って参拝する赤坂山王日枝神社の神門には、夫婦一対の神猿像が鎮座する。本殿の両脇にも夫婦のサル。狛犬ならぬ狛猿である。


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  赤坂日枝神社のサル
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住宅街にゾウがいた!

 上野動物園の年間入園者数は年々ジリジリと下がり続け、2010年には268万人にまで落ち込んだ。それが、翌2011年には471万人へとV字回復する。もちろん、リーリー、シンシン効果だ。

 上野動物園の入園者がピークを示すのは、1974年の764万人。1973年も737万を数えた。これまた理由は、72年10月のカンカン、ランランの来日。パンダは、押しも押されもせぬ動物園最大の人気者である。

 パンダがまだ日本にやって来る前、動物園一の人気を誇ったのはゾウ。太平洋戦争が終わった時、ゾウは名古屋の東山動物園にしかいなかった。「ゾウを見たい」。そんな子どもたちの願いを乗せて、象列車が走る。アニメ『ぞう列車がやってきた』は、今も各地で上映され続けいている。

 もっとも、まちなかのゾウは必ずしも珍しくはない。インド生まれの仏教にとってゾウは身近な存在であり、麻耶夫人がお釈迦様を身ごもったとき夢に見たのも、普賢菩薩が乗っているのもゾウ。だからお寺に行けば、結構ゾウに出合うことができる。

 そんな中でもイチオシは、品川区青物横丁にある真了寺のゾウ。鳥居のような山門の足元を、2頭のゾウが支える。宗教的にデフォルメされていないリアルなゾウが、突如住宅街の中に現れる。頭がクラクラしそうになるのは、熱中症のせいではない。


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  真了寺のゾウ
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平和の尊さを問いかけるツル

 トリは鳥で締めよう。日比谷公園には色んな鳥がいる。ペリカン、カモメ、そしてツル。ツルの噴水が作られたのは1905(明治38)年。装飾用噴水としては、日本で3番目に古い。製作は津田信夫と岡崎雪聲。この名前どこかで聞いた。そう、日本橋の麒麟のコンビだ。

 今は石造の台座に銅製のツルが乗るが、かつては台座も銅でできていた。戦時中の金属供出によって、台座は「お国のために」と鋳つぶされてしまう。だが、ツルだけは残った。まさに奇跡。地元の人たちが隠していたらしい。

 戦争が終わった時、動物園から動物たちが消えていた。その訳は、『かわいそうなぞう』のお話しでご存知のとおり。世の中が乱れると、真っ先に弱いものがしわ寄せを受ける。動物はその代表といっていい。そう考えると、まちなかに動物が溢れる姿は、何よりも平和を象徴している。

 68回目の終戦の日。日比谷公園のツルは、空に向かって真っすぐに、平和の尊さを吹き上げていた。


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  日比谷公園ツルの噴水
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滝 浴 み 《 観ずる東京23区 その23 》

 《 観ずる東京23区 その23 》


          滝 浴 み




                       東京23区研究所 所長 池田利道




風流を競った殿様たち

 「滝浴み」と書いて、「たきあみ」と読む。何とも涼しげな言葉である。

 滝にはマイナスイオン効果もある。科学的根拠が曖昧だとかで最近トンと耳にしなくなったが、滝のそばに行くと元気になったような気になるから、個人的には捨て難い。

 江戸時代のお殿様は屋敷内に滝を造り、滝浴みを楽しんだ。「武州第一」と称されたのが、島原藩松平家抱屋敷にあった千代ヶ崎の滝。場所は、目黒区の元・東京都教職員研修センター(現・警視庁目黒合同庁舎)のあたり。3段構えの滝だったと伝えられるが、広重の名所江戸百景のうち「目黒千代か池」では5段のようにも見える。確認しようにも、今は影も形もない。

 人工の滝なら、同じ目黒区の西郷山公園にもある。と、暑い中を訪れたのに水が流れていない。目黒区役所の話では、夏場は9時半~11時半と14時~16時に限って水を流しているとのこと。改めて指定時間に訪れたら、20mの落差を誇る見事な滝の姿があった。

 西郷山公園は、西郷隆盛の弟従道の邸宅跡。さらに過去を遡ると、豊後岡藩中川家の抱屋敷。しかし、滝はごく新しいものと思える。落ちた水は滝つぼに溜まることなく、そのまま地下の貯水槽に流れ込んでいくようだ。だとすれば、これは一種の噴水か。横に水を吹き出す「マーライオン」も噴水だとすれば、上から下に落ちる噴水だってあっていい。

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  西郷山公園の滝
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修験道のメッカ

 東京23区にも自然の滝がある。等々力渓谷の不動の滝は、断崖の中腹から双筋の水が流れ落ちる。崖の上に建つ等々力不動は、真言宗中興の祖興教大師が、役の小角が彫った不動尊に導かれて開いたとされる修験道の霊場。多くの修験者たちがこの滝に打たれて行に励んだ。

 等々力の地名は、不動の滝の音が轟きわたったことから名づけられたとの説がある。等々力不動の正式名は瀧轟山明王院。まさに滝が轟いている。今の水量は轟くには物足りないものの、東京という大都会の湧水と考えれば立派なものである。それ以上に、鬱蒼とした緑の中にせせらぎが流れる等々力渓谷は、しばし猛暑を忘れさせてくれる別天地だった。

 不動の滝は滝の名前としてはごくポピュラーで、板橋区にも赤塚不動の滝がある。富士山や大山など霊山に詣でる際、身を清める「みそぎ」の場だったそうだ。周辺の宅地化が進むにつれて水量は減り、今ではちょろちょろと流れ落ちる程度。しかし、涸れることはないらしい。バス通りに面しているにもかかわらず、一歩中に入っただけで荘厳な空気に包み込まれる。地元の人と思しき自転車が止まり、暫時手を合わせて通り過ぎて行った。

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  等々力渓谷不動の滝
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マイナスイオン満喫

 江戸庶民の滝浴みは王子。王子あたりで石神井川は、蛇行しながら丘陵を深く削って流れ、「王子七滝」と呼ばれるいくつもの滝を生み出した。

 王子七滝のうちひとつだけ現存している名主の滝は、王子稲荷の北側にある。石神井川とは離れているが、かつてこの辺りには石神井川から別れた上郷用水が流れていた。安政年間(19世紀中ごろ)に王子村の名主畑野孫八が自邸に開き、一般開放したのが始まりで、「名主」の名はここに由来する。昭和の初めには、精養軒が所有してプールを営業していたとも。滝が流れるプールだったのだろうか。

 名主の滝には男滝、女滝、湧玉の滝、独鈷の滝の4つの滝がある。訪れた時、女滝には水が流れておらず、独鈷の滝には「故障」の張り紙。湧き水が涸れてしまい、今は地下水をポンプで汲み上げて流しているとのこと。それでも、8mの落差を一気に駆け落ちる男滝の迫力は満点だ。流れのすぐそばまで近づくことができるのも魅力。マイナスイオンの信奉者としては、嬉しい限りである。

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  名主の滝・男滝
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王子なら区立公園巡りが面白い

 名主の滝は、北区立名主の滝公園にある。北区の公園面積の総面積に対する割合は4.9%。東京23区平均(6.4%)を下回り、23区中の順位は14位。上から数えるより、下から数えた方が早い。

 とはいえ、公園の面積は大きな都立公園がひとりで数値を稼いでいるところが無きにしも非ず。その意味では、区立公園の面積を比べる方が、公園の充足度を測る指標として適しているのかも知れない。

 北区の区立公園面積は、区の面積の4.4%を占める。23区平均の2.9%を大きく超え、墨田区、板橋区に次ぐ第3位。しかも、中身が濃い。日本最初の公園である飛鳥山公園も区立。石神井川沿いには、音無もみじ緑地、音無さくら緑地など、かつての石神井川の蛇行を活かした公園もある。音無もみじ緑地は、王子七滝のひとつ弁天の滝のあった場所で、石神井川の川面まで近づける。音無さくら緑地では、東京の基盤を形作る自然露頭を観ることができる。

 王子駅前の音無親水公園もお勧めスポットのひとつだ。「日本の都市公園100選」に選ばれている。東京23区で同じ名誉に浴するのは、日比谷公園、上野公園、代々木公園、水元公園。いずれ劣らぬ都立の大公園が居並ぶ中にあって、区立の星と呼びたくなる。

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  音無親水公園
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 江戸の庶民に習い、夏の一日「王子遊び」はいかがだろうか。お土産には、落語「王子の狐」にも登場する扇屋の玉子焼。

 珍しくお土産を買って帰ったりすると、「馬の糞かも知れない」と言われそうだって? そこはノーコメント。普段の心掛け次第だろう。

「お暑うございます」 ― 猛暑も涼しく 楽しんで 《 観ずる東京23区 その22 》

 《 観ずる東京23区 その22 》


       「お暑うございます」― 猛暑も涼しく 楽しんで




                     東京23区研究所 所長 池田利道




熱帯化する東京の夏

 お暑うございます。この後に「地球温暖化が…」と続くのが昨今の会話の基本パターンだ。しかしその一方で、「地球は氷河期に入りつつある」との説もある。

 東京(大手町)の気温の変動を、1963年から10年毎に追ってみよう。まず、最高気温が35℃以上になる猛暑日の数。1963~72年=15日、73~82年=10日、83~92年=17日、93~02年=44日、03~12年=44日。20年前から急に猛暑日が増え出した。最低気温が25℃以上の熱帯夜はもっとトレンドがはっきりしている。順に、125日⇒177日⇒257日⇒299日⇒339日。近3年間の熱帯夜の平均回数は年間51日。1960年代には12~13日程度であったことと比べ4倍以上の増加である。

 地球規模での気象メカニズム論はともかくとして、ヒートアイランド現象によって東京の夏が熱帯化していることに間違いはない。しかも、気象庁発表の気温は、百葉箱の中で測られたもの。最近は百葉箱ではなく白金抵抗式電気温度計らしいが、照り返しがなく風通しが良い場所での地上1.5mの気温という条件は変わらない。

 気温が30℃の日中、直射日光が射すアスファルト路面は50℃にもなるという。これに、エアコンや自動車の排気熱が加わる。気象庁の発表値と実際に感じる温度との間には、少なく見積もっても10℃以上の差がある。


“壁にゴーヤ”!?

 いや、夏が暑いのは当たり前。「家の作りやうは、夏をむねとすべし」と兼好法師がいったのは、700年も昔のことだ。暑い夏をいかに涼しく過ごすかに、日本人は知恵を絞り続けてきた。

 子どものころ、夏が来ると部屋のふすまを取り払い、すだれを下げた。軒には風鈴を釣り、壁にヘチマを這わせた。夕方には打ち水をし、夜は蚊帳を吊った。いつから蚊帳を吊らなくなったか覚えていないが、気がつけばクーラーに頼る生活になっていった。

 徐々に考えが変わり始めたのは、10年くらい前からだろうか。なかでも近頃よく目にするようになったのが「緑のカーテン」。洒落た呼び名に変わったが、まさに「壁にヘチマ」である。

 経験者曰く、ビギナーはゴーヤから始めるのがお薦めとのこと。葉が大きく密に茂るため、遮光・冷却の効果が大きいだけでなく、虫もつきにくいので育てるのが簡単。しかも、沖縄が長寿を誇る秘密のひとつとされる健康野菜のおまけまでついてくる。

 緑のカーテンは、部屋の温度を2℃ほど下げ、エアコンの使用電力量を2~3割減らす効果があるらしい。さらに格好の目隠しになるから、窓を開けて涼しい風を取り込める。そうなれば、省エネ効果はもっと大きくなるだろう。


緑のカーテンは板橋発

 国土交通省の調査によると、2012年度に緑のカーテンに取り組んだ都道府県市町村の数は369団体。11年度の231団体と比べ6割も増えている。取組みの内容で一番多いのは公共施設、とりわけ学校への導入。緑のカーテンは、環境教育の生きた教材である。

 10年前の2003年夏、板橋区立板橋第七小学校で緑のカーテンへのチャレンジが始まる。残念ながら初めの年は失敗に終わるが、翌年は見事に緑が茂り、この年の「地球温暖化防止活動環境大臣表彰」を受賞する。「壁にヘチマ」そのものは古くからある知恵ながら、全国に広がっていった「緑のカーテン運動」は板橋区から始まったといっていい。


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  板橋第七小学校の緑のカーテン
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 今では、区内の全区立小・中学校・幼稚園の校舎を緑のカーテンが覆い、板橋の夏を彩る風物詩となった。旗振り役の区役所は、大カーテンが名物だった南館が建替え工事中だが、今年も北館の南壁面に緑が茂っている。


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  板橋区役所の緑のカーテン
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 板橋区役所前から都営地下鉄に乗って5つ目。蓮根駅の西に広がるはすねロータス商店街は、商店街全体で緑のカーテンに取り組む。薬局も美容院も食料品店もラーメン屋もおでん屋も、みんな緑のカーテンだ。ノレンならぬ緑の葉っぱをくぐり、小料理屋で冷えたビールをグッと一杯。考えただけで喉がなる。つまみは、蓮根に敬意を表してレンコンのきんぴらとするか。それともやっぱりゴーヤにするか。


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  蓮根ロータス商店街の緑のカーテン
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楽しくないと続かない

 2004年の「地球温暖化防止活動環境大臣表彰」では、昔ながらの知恵を新しく活かすもうひとつの取組みにも賞が贈られた。江戸開府400年にあたる2003年の8月25日に、「江戸の知恵に学ぼう」と都内各地で一斉に行われた「打ち水大作戦」である。「みんなで打ち水をして、気温を2℃下げよう」。この合言葉だけで始まった運動は、瞬く間に全国各地に普及していく。

 浴衣姿の子供たちや若い人たちに、青い眼も混じる打ち水イベント。どの会場にも共通しているのは、楽しそうな笑い声だ。いかに立派な能書きを並べても、長続きしなければ意味がない。長く続くには、楽しくなくてはならない。環境活動も省エネもまちづくりも、すべて根は同じ。そして、もうひとつ忘れてはならないのは、見ているだけでなく参加することである。


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  みんなで打ち水
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 100円ショップでアルミのヒシャクを買ってきて、家の前で打ち水を始めた。通りがかりの見知らぬご婦人から、「お暑うございますね」の言葉が笑顔と一緒に帰ってきた。猛暑をさわやかな風が吹き抜けたのは、水の効果だけではなかったようだ。