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【地方公共団体】

 「地方自治体」という言葉は日常よく耳にするところですが、これは、法令上の正式な呼び方ではなく、法律用語としては「地方公共団体」です。
 
 都道府県や市町村、そして、特別区である東京の23区、これらはみな自治体であり、すなわち、地方公共団体ということになります。
 
 ただ、地方公共団体は自治体よりもう少し広い範囲を含みます。地方自治法では、2種類の地方公共団体を定めていますが、一つが「普通地方公共団体」、もう一つが「特別地方公共団体」です。都道府県や市町村は前者、23区(特別区)は後者ということになります。
 特別地方公共団体には、特別区のほかに「地方公共団体の組合」「財産区」「地方開発事業団」といったものがあります。特別地方公共団体は特定の目的のために組織された団体と言えますが、これにふくまれる特別区(23区)は、実体として、普通地方公共団体と変わるところがありません。
 
 地方公共団体は、国の一定地域を存立の基礎とし、その地域内の居住滞在者に対して法の認める支配権を行使する団体であり、いずれも法人格を持ちます。
 
 最近、地方公共団体は住民の統御する政府であり、国 (中央政府)に対する地方の政府であるとして、「地方政府」という呼び方も生まれています。
 

【特別区】

 私たちの対象とする東京23区、これがまさに「特別区」です。
 
 23区は、地方自治法上「特別区」と呼ばれますが、法的な性格は「特別地方公共団体」ということになります。特別区は 1975 年 4 月以来直接公選となった区長と区議会を有して、「市」に準ずる権能を持つとはいえ、都と特別区の関係は、都道府県と市町村とのそれとはまったく同じではありません。
 
  これは、地方自治法が、都が法令および条例、規則に基づき 23 区の存する区域においては、市としての権能を持つことを規定しているためです。その理由として挙げられるのは、大都市行政の一体性ということです。
 
  要するに、特別区は「市」と同じような、事務事業、人事、税財政上の権限を持たないのです。その意味で、特別区は“不完全な自治体”であったと言えるかもしれません。
 
  戦後の民主化推進が転換点を迎えるころの1952(昭和27)年、地方自治法が改められ、それまで行われていた区長の公選が廃止されます。その際、区長は区議会が都知事の同意を得て選任されるようになりました。また、区の事務は法に列挙されたものに限られ、それ以外はすべてとの事務となります。さらには、区への都職員配属制度が導入され、都職員が区で働くようになりますが、それに対して、区長の人事権が及ばないといった中途半端な形となりました。
 
  こうしたことから、都と特別区の名伊田ではく自治権をめぐって紛争も起こりました。高度成長による東京への人口集中、都市環境の激変などから、都が府県と市の権能を併せ持って、区民の生活環境整備を行うことにも限界が見え始めます。
 
  その中で、区議会による区長公選回復運動も巻き起こります。やがて、それは、区民からの強い要望の表れとしての運動として展開され、ついに、1974(昭和49)年、地方自治法は再び改正されます。これが施行される翌75(昭和50)年、区長の直接公選性が復活しました。
 
  それによって、区は権限面でも市並みの自治体となり、人事権を持つ公選区長のもとで、原則として、市と同様の事務を処理するようになります。また、人事委員会や保健所設置に関しては、一般の市よりも強い権能さえ持ちます。しかし、上下水道、精巣、消防事務は都の事務事務となっているなど、まだまだ変則的な形をとどめているのが現状です。
 

東京23区の年齢は?

 第二次世界大戦が終わって間もない1947(昭和22)年3月15日、戦前の東京市(1943年に廃止)から続いている35区は22区に再編成されます。戦災によって各区の人口には著しい格差が生まれており、これを調整しなければ復興も進まないといったことが理由にありました。
 
 また、戦後の民主化の中で、地方制度が改められ、自治権も拡大されたため、各区が自治体としての機能を十分発揮するためには、それなりに充実した基盤が必要とされたこともあります。
 
 同じ年の8月1日、今度は、その22区のうちの一つ、板橋区から練馬区が独立します。ここに至って、今の23区が形作られたわけです。
 
 戦前の35区は、基礎自治団体である東京市や東京都の下部組織でしたが、さりとて、単なる行政区ではなく、区会も設けられ、独自の財産・営造物の維持管理など固有の事務を行い、法人格を持った独特の存在として認められてきました。そうした経緯もあったためか、戦後の地方自治法の下で、新生「23区」は「特別区」として発足し、今日に至っているのです。
 
 いずれにせよ、東京23区は昭和22年生まれ、“団塊の世代”だったのですね。


  <理事・研究員
小口 達也>

 
 

「東京市」って?

 どこにあると言われても、今、地図を広げたところで、どこにも見つかりません。ただ、かつては、確かにあったのです。場所は、今の23区に相当する区域です。
 
 東京市だけではなく、「東京府」もありました。ちょうど、今でも、大阪府があり、その中に大阪市がある。京都府があり、京都市がある。それと同じように、東京府東京市があったのです。

 やがて、第二次世界大戦中の1943(昭和18)年に、東京府は「東京都」となり、東京市は消滅します。
 
 東京市が誕生するのは、1889(明治22)年5月1日のことです。これより先、1878(明治11)年には、東京府に「15区」が置かれていました。これが、今日の23区の母体を成すものですが、この15区は、郡区町村編制法によって設けたれたもので、現在の千代田区、中央区、港区、新宿区(一部)、文京区、台東区、墨田区(一部)、江東区(一部)の範囲でした。つまり、今の23区よりはかなり狭い区域ですね。
 
 その15区の範囲に、市制町村制の施行によって、「基礎的自治団体」としての東京市が設置されたのです。その後も存続します。このとき、周辺6郡には町村合併によって85の町村が成立しました。15区はその後も、東京市の下部組織として存続します。
 
 東京市は、「憲政の神様」と讃えられた尾崎行雄(咢堂)、「大風呂敷」の異名をとった後藤新平など、幾多の歴史上のスターたちが市長を務めています。
 
 昨、2011年は、東日本大震災という大災害が日本を襲いました。今からおよそ90年前の1923(大正12)年にも、同じく忌まわしい大震災がありました。関東大震災です。その震災に見舞われたこの東京市も、死者10万人といわれる大きな犠牲を出しました。
 
 その震災からの復興が進む1932(昭和7)年、一挙にその市域を拡大します。このとき、およそ今の23区に相当する市域となりますが、区は35区に分かれました。市域の拡大とともに、それまでの15区から20区も区が増えたわけです。
 
 35区を擁する東京市も、第二次大戦の戦禍に呑みこまれていきます。戦時中の1943(昭和18)年、「東京都制」という法律によって、東京府が東京都となったのは、前述のとおりですが、このとき、東京市は廃止され、消滅するのです。その下部組織であった35区のみが残りました。


  <理事・研究員 小口 達也>

データベースへの誘い -「知の刺激」が、あなたのビジネスを変える-

 「都市は生きものである」。生きものなればこそ、それぞれに個性があり、表情がある。数字に示されたデータは、個性を形作る一つの属性にすぎず、表情を生み出す一つの断面にすぎない。

 一見無機的に見えるパーツの組み合わせの「妙」。ここに有機体の本質がある。データにこだわり、数字に追い回されていると、「木を見て森を見ず」に陥ってしまう。だから森の中に迷い込むのだ。

 まずは、目的に応じた都市の全体像を仮説として立ててみよう。最初の仮説は大雑把で良い。むしろ、大雑把な方が良いのかも知れない。

 データに向き合うのはそれからだ。多分にゲーム感覚の検証作業。仮説がピタリと当たることなんて、まずあり得ない。だからそこに「何故?」の疑問が生まれ、それが気づきを生み、新たな仮説へと結びついていく。そこで再びデータに戻って…。後はその繰り返しだ。最初の仮説が大雑把な方が良いのは、大雑把であるほど気づきの要素が多くなるからに他ならない。

 生命体に代表される複雑系は、動的平衡のメカニズムによって自律的秩序を形成する。生物における「反」エントロピーの法則である。エントロピーの増大とは、即ち質の低下を意味する。

 都市も生きものならば、そこにはエントロピーを低下させ、活動の質を高める固有のメカニズムが存在するはずだ。この真相をつかみ出し、それを目的に応じてカスタマイズし得た者だけに、都市を舞台としたビジネスの勝者への道が拓かれる。
 だからと言って、いきなり個別のデータから入り、数字の森に迷い込むのは、まさにエントロピーを増大させる姿そのものである。「仮説」⇔「検証」のサイクルを通じて順次情報の価値を高めていくことによって、はじめて数字の羅列の中から「生きた解」を見つけ出すことができる。このとき、良質なデータベースは、単に作業を簡潔化させるだけでなく、気づきを生み出す「知の刺激」の格好の供給源となる。

 本データベースは、量的にもまた質的にもわが国で最もダイナミックなパワーを有する東京23区に的を絞り込み、その徹底した深掘りを通じて、ビジネスに即役立つ情報の提供を目指すものである。まだまだ不十分な部分は多い。しかし、それは利用者との相互コミュニケーションによって解決していけば良い。

 私たちの願いは、単なる数値データ入手の利便性ではない。東京の中に秘められた無限の価値を発見する「機会の提供源」となることである。

 あなたならではの「知の刺激」を駆使して、未来への挑戦を始めようではありませんか。


   一般社団法人 東京23区研究所 代表理事・所長 池田利道