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四百三十五年目の楽市楽座 《 観ずる東京23区 その7 》

《 観ずる東京23区 その7 》


  四百三十五年目の楽市楽座


            東京23区研究所 所長 池田利道


日本をぶっ壊す

 伊賀市に住む友人は、信長が大嫌いだ。天正伊賀の乱で、伊賀の国は文字どおり焦土と化した。

 信長は毀誉褒貶が激しい。狂気を思わせる残忍さが悪評を生む一方で、古い日本をぶち壊し、新しい社会秩序をプロデュースしたことは、信長ならではの功績である。

 特定商工業者の特権を廃止し、市場税を免じて、誰もが自由に商売できる「楽市楽座」を広めたことも、信長の事績とされる。

 楽市楽座は、信長が始めたものではない。その本当の狙いは、公家や寺社に属していた商業利権を大名が奪い取ることにあったとする説もある。もとより信長は、自治などはなから認めていない。だが、時代のうねりを逸早く捉え、それを天下統一に向けた経済戦略にまで高めた信長の炯眼は、やはり、さすがというしかない。


脈々と続く楽市の伝統

 戦国時代まっただ中の天正6(1578)年、東京でも楽市が始まる。当時関東を支配していた小田原の北条氏政が、吉良氏の城下町だった世田谷新宿(にいじゅく)で楽市の開設を許可した文書が、世田谷郷土資料館に残されている。ちなみに、世田谷新宿とは今の世田谷線上町駅あたり。世田谷区役所付近にあった元宿に対し、新しく造られたので新宿と呼ばれた。

 世田谷楽市は月6回、1と6がつく日に開かれた。それだけ人も集まり、需要も大きかったのだろう。江戸時代に入ると楽市は廃止されるが、その伝統は12月15日に開かれる歳の市となって残り続ける。歳の市といっても、近郷農村のニーズに応える農具市の性格が強かったらしい。

 明治7(1874)年からは1月15日にも市が立つようになり、さらに明治中期以降は、12月と1月の15・16両日の年4回に増える。名前も、いつしか「ボロ市」と呼ばれるようになる。

 1月15日、その世田谷ボロ市を訪れた。普段なら700以上の露店が連なり、1日で約20万人が繰り出すというが、前日の大雪の影響か店はいくぶん少ないようだ。とはいえ、肩が触れ合うほどの人出。名物の代官餅売場には、長蛇の列ができていた。

 それにつけても足場が悪い。スケート場の中にいるようで、尻もちをつく人もいる。東京でも有数の歴史を持つイベントだ。最初にみんなで雪かきをしてから始めて欲しかった。

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 世田谷ボロ市
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いざ、鎌倉!

 インターネットで世田谷ボロ市を検索すると、「(楽市が開かれた)当時の世田谷は、江戸と小田原を結ぶ相州街道の重要地点として栄えていた」という記事が次々と出てくる。しかし、相州街道は世田谷を通っていないし、当時の江戸は大田道灌時代の輝きを失った一寒村にすぎなかった。世田谷新宿という言葉から、江戸時代のような宿場町の賑わいをイメージするのも正しくない。

 世田谷新宿に楽市が開かれたのは、ここが鎌倉と北関東を結ぶ鎌倉街道中道の中継拠点だったからである。鎌倉幕府は、「いざ鎌倉」に備えて鎌倉に馳せ参じる街道と、馬を乗り換える伝馬の宿駅整備に力を入れた。このインフラが、戦国時代になると物資の集積地としての機能を発揮する。世田谷城は、「世田谷御所」とも呼ばれる広大な城だったという。現在の世田谷城址公園はごく一部で、本丸は豪徳寺付近にあったらしい。ここからも、富の集中をうかがい知ることができるだろう。

 豪徳寺といえば、井伊直孝と猫の故事に基づく、招き猫発祥の地のひとつとされる。ご当地キャラで有名な彦根市の「ひこにゃん」(“にゃん”というから猫なのだろう)も、この故事を踏まえているとのこと。招猫殿の脇にズラリと並ぶ招(まね)(ぎ)猫子(ねこ)は、ユーモラスというべきか。それとも不気味というべきか。

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 豪徳寺招猫殿の招福猫子
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楽市今昔

 東京には、もうひとつボロ市がある。練馬区関のボロ市だ。こちらは、日蓮宗本立寺で催されるお会式の関連行事。世田谷とはルーツが異なるものの、ボロ市、世田谷、練馬には共通項が存在する。

 答は農業。東京23区の農家数のうち、練馬と世田谷の両区で5割を超える。今はもう農業区とはいえないにしても、DNAはしっかりと受け継がれている。

 江戸は徹底したリサイクル社会で、溶けたロウソクの蝋を集める商売まであった。衣類のリサイクルは当たり前。直線裁ちの和服は、何度でも仕立て直しができた。ボロ切れになっても商品価値を持っていた。ボロをワラと一緒に編み込んだ草鞋(わらじ)は、丈夫で高く売れたから、冬の農家の副業に無くてはならない材料だったのだ。ボロ市の名は、ボロを売る店が並んだことに由来する。

 現代のボロ市は、古着屋もあるにはあるが、食料品や新品の衣類、日用雑貨、装身具、玩具などの店が多い。むしろ、楽市楽座の伝統を今風に伝えているのはフリーマーケットの方だろう。「楽」とは、規制のない自由な状態を指す。楽市を英訳するとまさにフリーマーケット。最近はプロの業者も増えてきているが、主役は「たんすのこやし」たち。動機は「もったいない」の精神だから、ボロ市にも通じる。

 売り手と買い手が商売の垣根を超えて交流するフリマの賑わいに、信長も苦笑いかも知れない。

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 世田谷ボロ市の古着屋
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最後のダイヤモンド富士 《観ずる東京23区 その6》

≪観ずる東京23区 その6≫


  最後のダイヤモンド富士


              東京23区研究所 所長 池田利道


富士山と東京

 「富士山が見えた!!」 という話は、東京ではさほど珍しくない。

 東京都環境局は、都庁の31階(2002年度までは35階)から朝9時に富士山が見えた日の統計を取っている。過去20年間の平均は85日。最多は1999年度の111日。およそ3日~4日に1度の割合だ。トップシーズンは冬。12月~2月の3か月で半数以上を占める。2011年の1月は、何と26日というから、ほぼ毎日富士山が見えたことになる。

 起伏が多い東京では、ちょっと小高いところなら、地上からでも富士山が見える場所が多い。千代田区富士見、板橋区富士見町、練馬区富士見台。駅名なら、中野富士見町に富士見ヶ丘(杉並区)。富士見の名がつく学校は、品川区、渋谷区、豊島区、北区にもある。すべて富士見の名所であったことに由来する。


富士には坂道がよく似合う

 そんな中でも、坂道から眺める富士山は絶景だ。近景の道、中景のまち、遠景の富士が調和し、えも言われぬ情景を創り出す。数え方によって諸説があるが、東京23区には20を超える富士見坂があるらしい。

 普段、何気なく通っている幹線道路にも富士見坂はある。青山通りの宮益坂は、かつて富士見坂と呼ばれた。今、坂の上から見渡せるのは渋谷の雑踏ばかり。富士の姿はかけらもない。

 不忍通りの護国寺富士見坂。坂の頂きに立つと、ビルとビルとの間から富士山の右稜線が垣間見える。坂を下るにつれて、富士山がだんだん大きくなっていくから面白い。ほんの150mばかりだが、坂下通りとの交差点付近では山頂がすっかり姿を現す。さしずめ「動く富士」とでもいうところか。

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 護国寺富士見坂からの富士山
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 2005年、国土交通省は「関東の富士見百景」の中で、7つの地区を「東京富士見坂」に選定した。目黒駅周辺(品川区)、青葉台地区、大岡山地区(以上目黒区)、田園調布周辺(大田区)、瀬田・岡本地区(世田谷区)、善福寺地区(杉並区)、日暮里富士見坂の7か所である。

 そのうちの1つ。世田谷区の岡本3丁目の坂。多摩川が作った河岸段丘の急坂を、息を切らして登る。振り返ると、丹沢の山並みを従えた雄大な富士が迎えてくれた。

 最寄駅は再開発が進む二子玉川。周辺には、三菱財閥岩崎家のコレクションを収める静嘉堂文庫や、江戸時代の農家を再現した岡本民家園もある。晴れた冬の日、是非訪れてみたい場所である。

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 世田谷岡本3丁目の坂からの富士山
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危機に瀕する富士見坂

 トリは日暮里富士見坂。2000年に1.5km先に建ったマンションが左稜線を欠いてしまったものの、今も山頂を仰ぎ見ることができる。坂の下に広がるのはマンション銀座の文京区であることを考えると、まさに奇跡に近い富士の姿だ。

 クライマックスは、富士山頂に夕陽が沈むその瞬間、茜色の空に輝くダイヤモンド富士の雄姿。年2回(日暮里富士見坂では1月と11月)、それぞれ数日間だけ、自然が生み出す壮大なショーが出現する。

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 日暮里富士見坂からの富士山
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 ところが昨夏、日暮里富士見坂から400m先の不忍通り沿いに、11階建てのマンション建設計画が降って湧いた。完成すれば、坂の真正面に壁の様に立ちはだかり、眺望が完全に遮られてしまう。マンションはすでに着工され、今年の10月末には完成の予定だという。

 サイエンスライターの竹内薫氏によると、ミニチュアの富士山を造って身近な富士信仰の場とする「富士塚」は、富士山が見える地域に限られた風習だそうだ。実物を見て観ずるのと、写真や映像を見るのとでは、天と地ほどの違いがある。

 日暮里富士見坂の富士山を前に、たまたま来合わせた揃いのジャンパーの青年たちが、一斉に感動の声をあげた。その感動が、間もなく消えようとしている。


権利か、文化か

 眺望権とか景観権という言葉が定着し、裁判で争われる例も少なくない。だが、土地所有者の立場に立てば、自分の土地に適法な建物を建てることが、なぜ制限されるのかとなる。

 富士山の眺望となると、ことはなおさら厄介だ。ビスタライン上のすべての建物の高さを制限するなんてことは、そう簡単に実現しそうにない。権利と権利がぶつかると、必ずドロ沼化してしまう。

 葛飾北斎の『富嶽三十六景』。実は「裏富士」を合わせて46景あるが、うち17景が東京23区を舞台とする(23区か多摩地域かの特定ができない「武州玉川」を除く)。東京は、常に富士の姿と寄り添い続けてきた。そこに、東京の文化風土の底辺が横たわる。

 権利ではなく文化という視点に立って、大人の議論を交わすことができる日が待ち焦がれる。

 2013年1月。日暮里富士見坂に最後のダイヤモンド富士が姿を見せる。天候次第だが、可能性があるのは28日~31日の4日間。時間は午後4時50分~55分ごろ。

 カメラを捨てて、心の中に感動と反省を焼きつけておきたい。

東京イルミネーション考 《観ずる東京23区 その5》

《観ずる東京23区 その5》


      東京イルミネーション考


                     東京23区研究所 所長 池田利道


過ぎたるは及ばざるがごとし

 丸の内で、思いのほか用が長引いた。外に出ると、暮れ初めた丸の内仲通りをイルミネーションが彩っていた。

 十数年前、同じ丸の内仲通りを飾った「東京ミレナリオ」は、華麗な光の祭典が目を驚かせた。今は、シャンパンゴールド一色。丸の内らしい気品に溢れる。復元なった東京駅の淡いライトアップともよく似合う。

 いやいや、丸の内ではド派手なイベントが用意されていた。12月21日から始まった「東京ミチテラス」だ。目玉は、東京駅の赤レンガ駅舎をスクリーンに見立てた光のショー「TOKYO HIKARI VISION」。余りの前評判の高さに大混雑を極め、23日を最後に打ち切られてしまったとか。

 「過ぎたるは及ばざるがごとし」の教訓を残す、イソップ童話のような結末となった。


いずれ菖蒲(あやめ)か杜若(かきつばた)

 すっかりクリスマスシーズンの風物詩となったストリートイルミネーション。まち毎に技術と演出を競い、毎年進化を続けている。

 東京のイルミネーションのさきがけは表参道。始まりは1991年というから20年以上前のことだ。混雑やゴミの散乱が問題化し、一たん中止されたが、2009年から再復活している。

 と思いきや、表参道にイルミネーションが灯っていない。今年は思い切って趣向を変え、主要な商業施設とラルフローレン前のまちかど庭園に、光のモニュメントを飾る。テーマは、ウォルト・ディズニー生誕110周年。表参道ヒルズの吹き抜け大階段では、ディズニーキャラクターたちが舞踏会を繰り広げていた。

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 ●表参道ヒルズのクリスマスモニュメント
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 まちかど庭園に設けられたフォトスポットには、カップルの長い行列。「特別なまちで、特別な想い出を」。さすがイルミネーションの老舗。“技あり!”の感がある。

 イルミネーションといえば、六本木のけやき坂も見逃せない。丸の内仲通りは1.2km。表参道は1km。これらに比べ、けやき坂は400m。コンパクトではあるが、微妙にカーブする坂道と、正面に望む東京タワーのライトアップが、シンボリックな空間を生み出している。1時間に2回、煌めきが流れるように変化する演出が今年の見せ場である。

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 ●けやき坂イルミネーション
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 2,000㎡の芝生広場を光が埋める東京ミッドタウンの「スターライトガーデン」も、上下左右に光が動くモーション・イルミネーションが初お目見え。六本木では、「動き」が進化のテーマのようだ。

 汐留も負けてはいない。カラフルなイルミネーションに、3Dプロジェクションマッピングとオリジナルな音楽が合わさる幻想的な「リュミエの森」が、カレッタプラザに出現する。

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  ●カレッタ汐留「リュミエの森」
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 他にも、お台場や東京スカイツリーなどなど。光の饗宴が東京中で繰り広げられている。


チリも積もれば山となる

 イルミネーション進化のもう一つの共通テーマは省エネ。消費電力が少ないLEDの使用は当たり前。さらにその上を行く省エネ努力が課題とされる。

 例えば、100万個を超える電球を使う丸の内イルミネーションでは、従来のLED電球の3倍の照度を持ちながら、システム制御によって消費電力を約3分の1に抑える技術を導入している。

 「イルミネーション用の電力を風力発電で賄っている」と謳う六本木ヒルズでは(六本木ヒルズに風車がある訳ではない。イルミネーション用の電力使用量に匹敵するグリーン電力証書を、風力発電事業者から購入しているのが実態である)、再生可能エネルギーであっても節電すべしと、今年は昨年に比べて電力使用量を半減させた。

 それでも、けやき坂、毛利庭園、66プラザを合わせ約52万個の電球が、期間中に消費する電力の総量は1万kWhを超える。標準世帯が1日に使う電気の量は平均で10Wh程度。六本木ヒルズだけで1千世帯、4千人分に匹敵する。東京中を集めれば、数万人分をはるかに超える規模となる。


のど元過ぎれば?

 3.11を契機に、私たちは当たり前に存在すると考えていた「文明生活」なるものを、改めて問い直した。なかでも、電力制限令が出てもさほど困らなかったことは、いかにエネルギーを浪費していたかを実感させた。それが早くも忘れられているとしたなら、由々しき事態である。

 東京電力管内の12月24日午後8時の使用電力は、2008年~2010年の平均が4,171万kW。2011年が3,995万kW。2012年は4,164万kW。震災前の水準に戻っている。

 もう少し、細かくデータを検証しよう。平日の代表として、毎月最終金曜日(ただし、4月はGWの影響があるため第3金曜日)の午後8時を比較してみる。3月~11月の平均は、震災前(2008年~2010年の平均)が3,929万kW。2011年が3,428万kW。2012年が3,565万kW。節電が至上命題とされた去年よりは増えているものの、震災前と比べると今年もしかり減っている。

 電気の浪費はダメ。だけど、クリスマスくらいパ~ッとやろうよ。景気も悪いことだし。
 少なくとも、今年はそういえそうだ。と同時に、こんなことも頭に浮かんだ。まちの灯が一斉に消えると、満天の星が姿を現す。それは、人工的なイルミネーションよりもはるかに美しく、感動的に違いない。

 「クリスマスくらい電気を消そう」。そんな時代が、いつか来る日があるのだろうか。

たき火の季節  《観ずる東京23区 その4》

観ずる東京23区 その4

      たき火の季節

               東京23区研究所 所長 池田利道


冬の準備

 たき火をすると罪になる? 庭の落ち葉を集めて焼き芋を作るくらい大目に見てくれてもよさそうなものだが、やれゴミの野焼きだ、ダイオキシンだと喧しい。たき火をしていたら、ご近所が騒いでパトカーが来たという笑えない話もあると聞く。何とも世知辛い世の中になったものである。

 子どものころ、よくたき火をした。漫然と落ち葉を燃やしたのではない。当時の主要な暖房手段だった炭火を熾すうえで欠かせない、消し炭を作るという目的があった。だから、たき火と聞けば初冬の風景が想い浮かぶ。たき火は、冬の準備であった。今さらながら考えてみれば、落ち葉が舞うのは晩秋から初冬の季節に他ならない。


かきねの かきねの まがりかど

〽かきねの かきねの まがりかど たき火だ たき火だ おちばたき

 この歌の故郷は中野区。新井薬師前の駅を下りてジグザグと角を曲がりながら数分。立派な竹垣が続く大きな家がある。中野区教育委員会の案内板によると、「たき火」の歌を作詞した巽聖歌はこの近くに住み、朝な夕なの散歩の途上で詩情を湧かせたという。

 木賃アパートのメッカとされる中野区にあって、この辺りは立派な垣根を備えたお屋敷が多い。周囲を見渡すと、何十年か前にタイムスリップしたような、やさしい空間が広がっていた。

 それにしても、「かきねのまがりかど」が竹垣だったとは…。生垣だとばかり想っていた。詩が生み出す独創的な世界観の魔力を改めて感じ直す。

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「洗練」を支えるもの

 新井薬師は、駅を挟んで南に眼病治癒にご利益あらたかな梅照院(新井薬師寺)。北に東洋大学創始者の井上円了が創設した哲学堂。両メジャーが並び立つ、東京の街歩き愛好者には欠かすことのできないスポットである。

 そしてもう一つ。哲学堂の北に隣接する野方配水塔も、この地を語るうえで忘れてはならない。

 一部に異論もあるものの、わが国の「近代上下水道の父」と呼ばれる中島鋭治博士の設計によると伝えられるこの配水塔は、「水道タンク」の愛称で地元に親しまれてきた。「双子のタンク」といわれた板橋区の大谷口配水塔が取り壊された今も、中野区の災害用給水槽としての役割を果たし続けている。その立ち姿は、何とも美しい。

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 大谷口配水塔は、かつてのデザインを摸したポンプ塔として蘇っている。とはいえ、木に竹を接いだ結果からか、いささかマンガチックな感が否めない。対する野方配水塔は、あくまでもエレガント。じっと見詰めていると、洗練された姿の裏に、垣根の曲がり角と共通する「優しさ」が見えてくる。ここにあるのも、まぎれもない一つの世界観だ。いかに技術を駆使しても、CADでは表現できないものがある。

(大谷口配水塔の現在の姿は、http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2011/03/20l32300.htm)。


さざんか さざんか さいたみち

 〽さざんか さざんか さいたみち たき火だ たき火だ おちばたき

 聖歌の時代には、竹垣の向いにサザンカの花が咲いていたのだろう。残念ながら、今その姿は消えた。庭木としてポピュラーなサザンカだが、猫の額の庭では似合わない。サザンカが消えたのは、時の流れのなせる業なのかも知れない。

 ちなみに中野区の花はツツジ。東京23区の約半分にあたる11の区がツツジあるいはサツキを区の花としている。なるほど、ツツジなら猫の額にもよく似合う。

 そんな中で、サザンカをシンボルフラワーに指定している区がある。答えは江東区。ちょっと意外という方は、亀戸中央公園を訪れて欲しい。ここは、東京有数のサザンカの名所である。

 園内には約50種類、4,000本のサザンカの木。サザンカというと中低木と思っていたが、5mを超えるような大木もある。50種類もあれば、早咲きも遅咲きも多種多様。11月の初めから3月頃までサザンカの花を楽しむことができる。

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 北風がぴいぷう吹いたり、しもやけがかゆかったり、木枯らしが寒かったり。「たき火」の詩は真冬のイメージが強い。これも作者が創り出したマジックワールドだ。亀戸中央公園ならぬ街なかのサザンカが咲き誇るのは、11月の下旬から12月の前半にかけて。やっぱり「たき火」は初冬の情景であることが、ここにも種明かしされている。

 たき火がご法度なら、「たき火」の歌も子どもたちに教えることができないのだろうか。だが、先人たちが何をなすにも重視した大きな世界観。それだけは、絶えることなく伝え続けていきたい。哲学堂の小路を歩きながら、こう考えた。

世田谷パン祭り 《観ずる東京23区 その3》

《観ずる東京23区 その3》


     世田谷パン祭り


                  東京23区研究所 所長 池田利道


世田谷ライフスタイル

 東京23区で一番八百屋が多いのは大田区。さすが日本一の青果市場である大田市場のお膝元だ。大田区は、魚屋の数も23区最多。こちらは江戸前の名残りだろうか。

 肉屋が一番多いのは足立区。足立区には焼肉屋も多い。飲食店全体の数は23区中9位ながら、焼肉屋は新宿区、港区に次ぐトップ3の位置を占める。焼肉と聞くと、のどがゴクリと鳴るのが呑んべえの性。ご安心を。足立区は酒屋の数もダントツに多い。

 ではパン屋は? 最近のパン屋は、ホームメードのベーカリーショップが主流になった。そのベーカリーショップが一番多いのは世田谷区である。

 世田谷区は、手づくりの菓子屋(ケーキ屋を含む)も23区で一番多い。他に、世田谷区の一番を並べてみよう。花屋、ペットショップ、動物病院、生花・茶道教室、フィットネスクラブ・・・。

 世田谷区民のライフスタイルが彷彿としてくるではないか。


パン屋さん大集合

 11月23日。そんな世田谷区ならではの祭りに出掛けた。三宿通り(都道420号)沿いに延びる「三宿四二〇商店街」と、池尻中学校跡を活用してクリエーターの養成に取り組む「世田谷ものづくり学校」がタッグを組んで開催する『世田谷パン祭り』だ。

 当日はあいにく傘が放せぬ空模様だったが、メイン会場の池尻小学校体育館前には長~い行列。15分待ちで会場に入ると、地元世田谷区をはじめ全国から集まった57店のパン屋さんが所狭しと並ぶ。

 買ったばかりのパンに早速かぶりつく人たちから、揃って笑顔が浮かぶ。商店街のデリバリー受付コーナーで、人気レストランのメニューを注文する人も、今夜のディナーに限ってはパンが主役に違いない。

 ものづくり学校の会場では、パンをテーマとしたトークショーやワークショップも行われている。パン好きの世田谷区民にとっては、たまらない1日だろう。帰りに立ち寄った世田谷公園会場(こちらにも16店のパン屋さんが軒を連ねる)は、入場制限で20分待ちだったが、後ろに並んだ若い女性の2人連れは、ずっとパンの話題が尽きなかった。

 世田谷パン祭りは、まだ今年で2回目。にもかかわらず、しっかりと地元に根を下ろしつつある。世田谷からまた一つ新しい文化が生まれた。ますます大きく育ってほしい。

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三宿の「宿」に宿るもの

 三宿は、大山道(現在の国道246号)沿いに本宿、北宿、南宿の3つの宿場があったことからその名がついたとの説がある。だが、どうやらこれは都市伝説に過ぎない。

 では、三宿は何の「宿」だったのか。謎を解くカギは、お隣の池尻にあった。

 池尻大橋駅のすぐそばにある池尻稲荷。玉川通りに面して建つ鳥居をくぐり、石段を上った左手にある手水舎は、「薬水の井戸」とも「涸れずの井戸」とも呼ばれる井戸の水だ。手水舎向いの祠は水神社で、蛇が祀られている。本殿左の小さな社は清姫稲荷。ご神体は白蛇らしい。

 かつて、この辺りには「蛇池(あるいは龍池)」と呼ばれる池があった。川と同じように池にも上流と下流がある。水が流れ込む方が上流、注ぎ出る方が下流。その最下流端だったから「池尻」の名がついた。対する上流部は「池ノ上」。池尻大橋駅から井の頭線の池ノ上駅までは約1.5kmあるから、相当大きな池だったのだろうか。実際は、池というよりも、沼沢地が広がっていたようである。

 大山詣の旅人は、お隣の三軒茶屋で一服し、世田谷線の上町駅辺りにあった世田谷宿で宿を取った。三宿に宿っていたのは水。水が宿る「水宿」が、三宿の名を生んだ。

何もない原っぱ

 今の三宿は、ジメジメした湿地など思いもよらない。閑静な街並みの中に、トレンディなレストランやショップが点在するお洒落な街である。知る人ぞ知る隠れ家的存在で、芸能人が出没する店も多い。

 ちょっと古いが、10年前に『出没! アド街ック天国』で三宿が取り上げられたときの6割が飲食店。物販ショップを加えると、8割以上を占めた。

 しかし、三宿には「知る人ぞ知る」もっと違った魅力がある。三宿交差点から北へ歩くこと10分余り。多門小学校に向う坂道を上ると「三宿の森緑地」に着く。

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 法務省の研修施設跡地に、地元の人々の粘り強い努力によって実現したこの緑地には、「森」というだけあって樹齢を重ねた樹々が茂る。地域の防災拠点として、かまどベンチなど防災設備も整っている。だが、何といっても最大の魅力は原っぱ。何もない原っぱだ。

 直径50mほどの空間はヒューマンスケールに合っているのだろうか。何もない原っぱで、何もしないでいると、なぜか心が豊かになってくる。

 世田谷ライフスタイル。気取りを感じさせるその言葉の響きに、何となく抵抗を感じていた。だが、こんな空間を生み、かつ守り続けているとしたら・・・。世田谷ライフスタイルの実力に改めて脱帽せざるを得ない。

 何もない原っぱがそう教えてくれた。