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東京で富士登山 《 観ずる東京23区 その21 》

 《 観ずる東京23区 その21 》


       東京で富士登山





                        東京23区研究所 所長 池田利道






ミニチュアの富士山

 「祝世界遺産登録」とばかりに、富士山に登る人が急増している。何ごとにつけ熱しやすく冷めやすい日本人のこと、いずれ落ち着くだろうと鷹揚に構えているだけでは済まないらしい。自然の許容範囲を超えて人間が押し掛けると、取り返しのつかない環境破壊が進んでしまう。例えばトイレ。「キジうち」、「お花摘み」などと洒落た言葉で大目にみていられたのは、登る人が限られていたからだ。

 身の回りの八百万(やおよろず)に神性を感じ、これらとの共生を旨とする心が日本人の原点にある。とりわけ富士には強い信仰心が抱かれた。江戸時代には、富士信仰の集まりである富士講が、「江戸八百八講」といわれるほどの一大ブームを巻き起こす。
 信者のあこがれは富士への巡礼登山。しかし、誰もが簡単に登れる山ではない。それならばと、ミニチュアの富士山が造られた。今も東京のあちこちに残る富士塚である。


信者総出で築いたお山

 江戸で最初の富士塚は、高田の馬場のそばに住む植木職人の藤四郎が発願し、1779(安永8)年に水稲荷神社の境内に築いた高田富士。力自慢の男衆はもとより、老若男女がこぞって作業に携わったという。か弱きお嬢様も紙に包んで土を運んだとか。まさに信仰のなせる業だ。

 場所は早稲田大学の9号館あたり。ところが、昭和30年代末に早稲田大学が拡張された際、塚は壊されてしまう。今の高田富士は、この時甘泉園の隣接地に移転した水稲荷神社が移築したもの。時代が時代だったとはいえ、貴重な民俗遺産を壊して校舎を建てたとは、学問の府にしてはいささか寂しい。

 高田富士が一般開放されるのは年に1回。7月の海の日とその前日だけ。普段は鉄の門に遮られ、近づくこともできない。特別に許しを得て、中に入らせて頂いた。ざっと7~8mはありそうだ。塚を築いた信者の思いに改めて感服する。

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  高田富士
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 高田富士に登れなかった代わりにと、甘泉園に立ち寄る。「ヘビに注意!」の看板。都心にヘビがいるとは。八百万信者の末裔は、なんだか嬉しくなった。


登れる富士塚を探して

 東京には、かつての姿をそのまま残す富士塚も多い。なかでも、台東区の下谷坂本富士、豊島区の長崎富士、練馬区の江古田富士は、国の重要有形民俗文化財に指定されている。

 入谷の小野照崎神社本殿横にある下谷坂本富士は、1828(文政11)年築造。高さ約5m、直径約16mの塚全体が、黒朴石と呼ばれる富士山の熔岩で覆われている。毎年6月30日と7月1日の山開きに、登拝が一般開放される。

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  下谷坂本富士
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 豊島区高松の長崎富士は1862(文久2)年の築造。高さは約8m。直径は約21m。下谷坂本富士よりひとまわり大きい。表面が黒朴で覆われているのは下谷坂本富士と同じだが、それ以上にこのお山、姿がいい。神社そのものが無住となっているようで、富士塚も金網に囲まれている。

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  長崎富士
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 江古田富士は、江古田駅から徒歩1分の江古田浅間神社本殿裏にある。築造は1839(天保10)年とも、文化年間(19世紀初め)とも。高さ約8m、直径約30mの大きな富士塚だ。鬱蒼とした木立に囲まれているためよくは見えないが、迫力は十分に伝わってくる。一般開放は、1月1日~3日、7月1日、9月第2土・日の年3回。9月に改めて訪れることにしよう。

 下町にも富士塚はある。南砂町駅近くの富賀岡八幡宮本殿裏にあるのが砂町富士。やや小ぶりながら、吉田口、大宮口、須走口の3つの登山口あり、宝永山を摸した小さな高まりありとなかなか凝った造りである。「登るな!危険!」の立札を前に、やはり登拝は断念せざるを得ない。

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  砂町富士
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 誰でも、いつでも登れる富士塚は千駄ヶ谷にあった。鳩森八幡神社の境内に立つ千駄ヶ谷富士。1789(寛政元)年の築造で、東京に残る富士塚では最も古い。前面の池を渡って登山道へ。山腹の洞窟に安置されている像は、富士講のカリスマ食(じき)行(ぎょう)身(み)禄(ろく)だろうか。山頂には小さな祠。最後の登りは結構きつかった。高さ6mとのことながら、それなりの達成感がある。

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  千駄ヶ谷富士
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富士は眺めも世界遺産

 千ヶ谷富士の頂に立っても、神社の緑の向こうにはビルしか見えない。しかし、かつては富士山が見えたはずだ。頂上から富士を望むのが、富士塚の定番だからである。

 東京23区の最高峰は、自然の山では港区愛宕山の26m。人造の山では、戸山公園内にある箱根山の45m。標高最高地点は23区の西の端、練馬区関町南4丁目の58m。いずれにしても、マクロにみればほぼ真っ平ら。ちょっと高い所なら、どこからでも富士を眺めることができた。

 富士山の世界遺産登録は、自然遺産ではなく文化遺産。仰ぎ見る富士の眺めは、文化の重要な要素だ。三保松原も最後の最後で逆転登録となった。

 このニュースに日本中が湧き返っていたちょうど同じころ。本シリーズの第6回でも紹介した日暮里富士見坂の眺望ライン上に建設中のマンションが8階を超え、坂から富士の姿が消えた。マンション完成の暁には、「富士の眺めを独り占め!」とでも銘打って、富士ビューの部屋がプレミアム価格で売り出されることだろう。いや、またそのビューラインに新しいマンションが建つのかも知れない。万民共有の財産をひとたび個人に帰してしまうと、後はもう歯止めは利かない。

草市あれこれ 《 観ずる東京23区 その20 》

 《 観ずる東京23区 その20 》


        草市あれこれ





                        東京23区研究所 所長 池田利道






7月のお盆

 根が関西人のせいか、7月のお盆はどうもピンとこない。もっとも7月のお盆は、首都圏中心部などごく一部の地域に限られるそうだ。

 明治の初めに新暦が採用されて以降、年中行事の季節感にはどうしようもないズレが生じてしまった。3月3日の桃の節句には、まだ桃の花は咲いていない。「六日の菖蒲、十日の菊」とは、「5月6日の菖蒲、9月10日の菊のことで時期遅れの意味」といわれても、ピンとこない人の方が多いかも知れない。にもかかわらず、従順な日本人はズレた節句を文句も言わずに受け入れている。

 であるのに、なぜお盆だけが月遅れなのか。通説では、7月は農繁期であるため、新暦の受入れが根づかなかったとされる。7月7日の七夕も、大きな祭りは月遅れが多いのは同じ理由からだとか。分かったようで分からない話だ。昔ならいざ知らず、今や7月が農繁期なんて理由にならない。

 思うに、気候との関係があるのではないだろうか。例年、なら7月半ばはまだ梅雨の真っ最中。雨では迎え火も炊けないし、灯籠流しもできない。七夕にしても、織姫と彦星のデートは毎年お預けだ。

 東京でも盆踊りは梅雨が明けた7月下旬以降に行うところが多い。かくして東京の子供たちは、盆踊りがお盆の行事のひとつであったことを忘れていく。


草市の名残り

 かつてお盆が近づくと草市が立った。草市とは、おがら、盆ござ、盆提灯、ナスやキュウリで作った牛馬、ハスの葉、盆花などお盆用品を売る市のこと。何とも涼やかなネーミングである。

 東京では草市はほとんど姿を消した。しかし、7月に入ると草花を売る市が賑わいを呼ぶ。なかでも人気が高いのは、入谷鬼子母神真源寺の朝顔市と浅草寺のほおずき市だろう。

 「恐れ入谷の鬼子母神」の朝顔市は、毎年7月6日~8日の3日間。朝顔の別名を牽牛花と呼ぶことから、鬼子母神では朝顔市を七夕行事のひとつとしている。とはいえ、七夕はもともとお盆の行事をルーツとする。7月7日の夕方に盆棚(精霊棚)をあつらえ、祖先の霊が降りる依代として笹を立てた。その意味では、入谷朝顔市も草市に通じるものがある。

 今年の東京は7月6日に梅雨が明け、7日からは猛暑日の連続。朝顔も熱中症気味の様子だった。

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  入谷朝顔市
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 入谷朝顔市に続く7月9日、10日は浅草寺の境内にほおずき市が立つ。これも毎年同じ日。7月10日は四万六千日。1日の参拝で46,000日分の功徳があるとされる浅草寺の一大縁日である。

 もともと芝愛宕神社の縁日で薬草としてほおずきが売られ始め、いつしか浅草寺の方が有名になったというが、ここには明らかに草市との関連がみて取れる。ほおずきは、盆飾りの必須アイテムだ。6月24日の愛宕神社のほおずき市では早すぎる。7月10日。この日付に意味がある。そう考えてまず間違いあるまい。

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  浅草寺ほうずき市
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テキ屋と香具師(やし)

 昔ながらの草市は、東京から完全に姿を消してしまったのか。中央区観光協会のホームページによると、「月島西仲通り商店街の『月島草市』は、下町情緒豊かなお盆の道具を売る店が出る東京では貴重な季節市」とのこと。期待に胸を膨らませ、いざ月島へ。

 お盆用品は、屋台の裏側にひっそりと置かれていた。それも1店だけ。時代が時代だ。おがらはスーパーで買うことにして、縁日の方を楽しもう。

 射的に子供たちが群がっている。うまく鉄砲のバネが引けない小さな子の周りで、「ちょっと貸してごらん」とばかりに、年上の女の子たちがワイワイ騒ぎながら世話を焼いている。

 テキ屋の語源は、「的屋(まとや)」(今は玩具の鉄砲だが、かつては小弓)の「的」を音読みにしたとの説がある。とすれば、テキ屋はアミューズメント系。これに対して、香具師は物販系。「やし」の語源は、薬師に由来するらしい。ガマの油売りがその代表である。

 ガマの油は、口上で客を引きつける啖呵売が命。「持ってけ泥棒!」のバナナの叩き売りもその流れを汲む。「やけのやんぱち日焼けのなすび、色が黒くて食いつきたいが、あたしゃ入れ歯で歯が立たぬ」。流れるようなフーテンの寅さん口上は、今も耳の奥に残る。

 さすがに啖呵売はないが、月島の草市には乙に澄ました現代風の縁日には見られない一種の猥雑さがある。縁日なんて所詮猥雑なもので、そこにませたガキがいてはじめて絵になる。といったら、月島の方々に失礼だろうか。

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  月島草市の射的屋
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緑が溢れ出るまち

 植木屋という商売がある。産業分類上は園芸サービス業で、農業に属する。東京23区には130余りの店があり、世田谷、杉並、大田、練馬の4区でその半数近くを占める。一方、中央区は2店、台東区も2店、墨田区は1店、荒川区はゼロ。広い庭のある家が少ないと、植木屋さんも商売にならない。

 では、下町の生活は緑に欠けるのかというと、決してそうではない。延長500m弱の月島西仲通りには、両側合わせて20を超える路地が交差する。幅はせいぜい2~2.5m。どの路地にも緑が溢れている。植木鉢あり、プランターあり、トロ箱あり。ブロック塀に囲まれた庭の草木は内向きの緑。路地にはみ出す草花は外向きの緑。自分ひとりで楽しむのではなく、みんなで楽しむ。ここでは、緑を愛する心が人を愛し、まちを愛する心の中にある。

 こんなまちだから、自分のことより他人のことが気になって仕方がないませたガキが生まれてくる。このまちで、彼らは心豊かな大人へと育っていくに違いない。

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  月島の路地
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続・橋のフォルム 《 観ずる東京23区 その19 》

 《 観ずる東京23区 その19 》


       続・橋のフォルム





                        東京23区研究所 所長 池田利道






都市計画100年の申し子たち

 橋のフォルムを語るなら、隅田川に架かる復興橋梁を忘れる訳にはいかない。

 関東大震災は、隅田川の橋にも壊滅的な被害をもたらす。生き残ったのは、わずかに新大橋だけ。東京が東西に二分されてしまったのだから、橋の復興は最重点課題のひとつとされた。俗に「隅田川六大橋」と呼ばれる言問、駒形、蔵前、清洲、永代、相生の各橋は、内務省復興局が直轄で施工したものだ。吾妻、厩、両国の3橋は、当時の東京市が復興を担当する。

 震災復興では、幹線道路の整備も重要事業となる。基本骨格は、昭和通り、大正通り(現靖国通り)、明治通りの丸に十の字形。その意味では、昭和通りに繋がる千住大橋、明治通りに架かる白鬚橋も復興橋梁と呼んで差支えないだろう。

 これら11の復興橋梁のうち、最下流(正確には晴海運河に続く隅田川派川)の相生橋は、老朽化が激しく1998年に架け替えられるが、残る10橋は完成後80年以上を経た今も現役である。当時と現在とでは、交通量は想像を絶するほどに増えている。ひと口に都市計画100年というが、100年先のことなど誰も分からない。にもかかわらず、なお現役であり続ける復興橋梁群。フォルムを語る前に、橋としての技術水準の高さに、まずもって脱帽するところから始めねばならない。


双子の門

 隅田川最下流に架かる勝鬨橋が完成するのは1940(昭和15)年。佃大橋は1964年。中央大橋はずっと下って1993年。震災復興当時隅田川の第1橋梁だった永代橋は、「帝都の門」として設計される。そのフォルムは、ドイツライン川に架かるレマゲン橋(ルーデンドルフ橋)をモデルにしたとも、清洲橋のモデルとなったケルン吊橋の設計コンペで、惜しくも落選した案を元にしたともいわれている。

 形式は、アーチの裾を長く伸ばし、支点に掛かる力のバランスを取る鋼バランスドタイドアーチ橋。このアーチの裾こそ、永代橋の最大の特徴である。

 永代橋の上流には隅田川大橋が架かるが、これも1979年完成の新しい橋で、昭和の初めは清洲橋が第2橋梁だった。このため清洲橋は、永代橋と対になって帝都の門を構成する橋と位置づけられた。アーチ橋である永代橋の上向きの曲線に対する下向き曲線。清洲橋に吊橋を採用した理由は、永代橋との対比にあった。永代橋と清洲橋は2橋でワンセットを形作る、いわば双子の橋である。


ワイルドだろう~

 一般に清洲橋は女性的で優美なフォルム、永代橋は男性的で力強いフォルムと形容される。清洲橋の優美さには全く異論がない。永代橋の力強さは、橋の上に立ってアーチ構造を見上げるとなるほどと納得できる。かつては、歩いて橋を渡る人が多かったから、永代橋の力強さを実感することができたのだろう。しかし今、車はあっという間に橋を通り過ぎてしまう。橋のフォルムは、遠目で眺めるものになった。そのとき、裾の長い曲線は、むしろ優美と目に映る。男性的だと強調されると、草食系のイケメンかと思ってしまう。

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  清洲橋
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  永代橋
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 永代橋を真似て設計したといわれる白鬚橋も長く裾を引いている。しかし、白鬚橋は永代橋よりはるかに男っぽい。その理由は、この橋がアーチとトラスの複合形だからだ。曲線は女性的。直線は男性的。とりわけ、どっしりとしたトラスの三角形は、男性的な力強さにあふれる。

 内務省復興局は、復興橋梁の設計にあたってなぜかトラスを排除した。だが、当時東京市外にあった白鬚橋は、トラスを大胆に採用する。もっと男性的なのは、トラスと組み合わせたアーチの裾を鉈で断ち切ったような千住大橋。そこには筋骨隆々たる剥き出しの構造美がある。今風に表現するなら、「ワイルドだろ~」だ。

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  白髭橋
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 国道4号に架かる千住大橋は、交通量の増大に対処するため、桁構造の新橋が1973年に架橋され、旧橋は下り専用となった。新橋によって景観は大きく阻害されたが、旧橋を残したことは英断と評するほかない。

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  千住大橋
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橋は川を眺める舞台

 吾妻橋から蔵前橋まで。わずか1km強の間に、吾妻、駒形、厩、蔵前の4橋が並ぶ。そのいずれもが3連アーチ橋である。吾妻橋と蔵前橋はともに上路式の3連アーチ橋。同じ形式であるが、吾妻橋は洗練さを、蔵前橋は重厚さを感じさせる。厩橋は、リズミカルな下路式3連アーチ橋。復興計画の担当者は、ゲートブリッジである永代・清洲の両橋以外は、船運に配慮して上路式を基本とし、止むを得ない場合に限り下路式を採用したようだ。厩橋が下路式となったのは、橋のたもとで幹線道路が交差しており、上路式とするための橋桁の高さを確保できなかったからだと考えられる。

 同じ様な道路条件にある駒形橋は、内務省直轄の威信をかけて、あくまでも基本原則にこだわりながら見事な答を導き出した。両端に小さな上路アーチ、中央に大きな下路アーチの組み合せである。よく見ると中央部のアーチの先端は橋桁の下まで伸びている。こうした形式を中路式という。中路式を採用することで、3つのアーチの連続性が確保されるとともに、橋全体に安定感が生み出されている。あたかも、両側に脇侍を控えた三尊像をみるようだ。

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  駒形橋
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 現在の感覚からすれば、上路式より下路式の方が景観に与えるインパクトが強いように思える。とすれば、上路式を基本とする復興橋梁は、景観への配慮が欠けていたのだろうか。謎は橋を歩いてみれば解ける。駒形橋も蔵前橋も、橋脚の上にバルコニー空間が設けられている。当時の橋は歩いて渡るもの。しかも場所は、東京随一の繁華街浅草。橋の景観要素は、川の景色を眺める舞台と位置づけることに、しっかりと配慮されていた。


引き継がれる伝統

 フォルムを重視する復興橋梁の伝統は、隅田川の橋梁にその後も引き継がれていく。全長23.5kmに架かる26の橋(高速道路橋を除く)のうち桁橋は少数派で、半分がアーチ橋。アーチといっても様々な形がある。2007年に開通した最年少の新豊橋は、数々の賞に輝いた現代アーチの名橋だ。

 1976年に架け替えられた新大橋は、主塔から斜めに張ったケーブルで橋桁を支える斜張橋。「バブルの落とし子」と揶揄される中央大橋も斜張橋である。復興橋梁の呪縛が解けたかのように、新しい相生橋はトラス橋だ。隅田川はまさに橋の博物館。橋のフォルムに反映される時代の変化を追ってみるのも面白い。

 隅田川だけでなく、荒川にも名橋は多い。5連アーチの旧小松川橋は姿を消したが、吊橋と桁橋を組み合わせた葛西橋、桁橋をアーチが補強するランガーアーチの四ツ木橋、トラスの名橋木根川橋などなど。通勤途上にある橋を、途中下車して訪れてみてはどうだろうか。震災で歩いて帰宅しなければならなくなったときの、格好の下見にもなるはずだ。

橋のフォルム 《 観ずる東京23区 その18 》

 《観ずる東京23区 その18》


        橋のフォルム





                        東京23区研究所 所長 池田利道






意匠美を超える構造美

 「うまれ浪速の八百八橋~」。村田英雄には申し訳ないが、江戸時代の大阪には200ほどしか橋がなかったらしい。これ対して、江戸の橋はおよそ350。ちなみに、「大江戸八百八町」の方は、18世紀半ばには約1,680町を数えたそうだ。やっぱり東京はスケールがでかい。

 現在、東京23区内の橋の数は優に2千を超える。そんな中から名橋を選ぶとなると、これはもう完全に趣味の領域だろう。ということで、独断と偏見に基づきお茶の水の聖橋を一番バッターに取り上げる。関東大震災からの復興事業の中で、1927(昭和2)年に完成した鉄筋コンクリートアーチ橋である。湯島聖堂とニコライ堂(東京復活大聖堂)結ぶ位置にあることから、その名がついた。

 聖橋は、船に乗って川から見上げたとき最も美しく見えるように設計されている。御茶ノ水駅(駅名の方はこう書く)のホームから見上げると亜体験ができる。だが、個人的には、お茶の水橋からの眺めが好きだ。都心にあって渓谷を思わせる切通しの崖の緑と、優美なアーチが絶妙に調和する。そこには、デザインを超えた美しさがある。

デザインとは意匠。意匠とは工夫を凝らした装飾。しかし、橋の美しさは構造美そのものだ。デザインというより、フォルムと呼ぶにふさわしい。

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  聖橋
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最下流の橋

 聖橋の下を流れる神田川は、両国橋の北で隅田川に合流する。その最下流にあるのが柳橋。〈おしろいの 風薫るなり 柳橋 子規〉。柳橋は由緒ある花街だが、今回の主役は橋。最初の架橋は元禄時代まで遡る。現在の橋が架けられたのは1929(昭和4)年。これも復興橋梁のひとつである。形式は鋼タイドアーチ橋。アーチと橋桁をタイ(弦)で繋ぐ、タイドアーチの教科書のような橋だ。

 聖橋と柳橋はともにアーチ橋。見た目はかなり違うが、橋桁にかかる荷重をどの様な方法で支えるかによって橋の分類は決まる。橋の分類にはもうひとつ指標がある。人や車が通る通行面が、アーチやトラス(三角形の連続)などの橋を支える構造より上にあるものを上路橋、下にあるものを下路橋と呼ぶ。聖橋は上路式アーチ橋、柳橋は下路式アーチ橋である。

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  柳橋
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 飯田橋と水道橋の間で神田川から分かれる日本橋川。川の上部の大半を高速度道路が覆う可哀そうな川だ。隅田川との合流部手前で高速道路が箱崎の方にカーブし、ようやく空が見渡せるようになる。最下流にある豊海橋は、フィーレンデール橋と呼ばれる珍しいフォルムをもつ。一言でいえば梯子を横にしたような形。これも復興事業によるものである。

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  豊海橋
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 日本橋川支流の亀島川最下流に架かる南(みなみ)高橋(たかばし)は下路式トラス橋。趣は深いがどこか中途半端に見えるのは、この橋の来歴を物語っている。震災復興事業の予算が苦しくなり、旧両国橋の3連トラスのうち被害の少なかった中央部分をリサイクル利用して架けられた。

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  南高橋
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昭和の初めの景観計画

 柳橋も、豊海橋も、南高橋も全て下路橋。同じ震災復興橋である神田川第2橋の浅草橋、日本橋川第2橋の湊橋はともに上路式アーチ橋。亀島川第2橋の高橋(たかばし)は、現在は没個性な桁橋ながら、1919(大正8)年に架橋され、関東大震災に耐えた旧橋は、やはり3連アーチの上路橋だった。

 河口の第1橋を下路式としたのは、船運への配慮に加え、川を遡る船頭の分かりやすい目印になるという意味があった。景観とは単なる「見た目」ではなく、機能性と表裏一体化したものであることを、昭和初期の技術者は熟知していたのだ。


陸橋のフォルム

 目白駅から目白通りを学習院の方向に進むと、やがて明治通りと立体交差する。交差点の名前は千登世橋。1933(昭和8)年に完成した東京で最初の立体交差橋である千登世橋は、上路式アーチ橋の見事なフォルムをもつ。現在なら陸橋は機能性一辺倒とされるところだが、この橋は逆に、市街地の中にあるからこそ景観性を重視して設計された。

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  千登世橋
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 陸橋といえば、横断歩道橋も橋だ。1960年代初め、モータリゼーショのン急激な進展が、交通地獄という負の側面を深刻化させる。時あたかも、東京はオリンピック前の道路建設ラッシュの時代。このとき、歩行者を守る切り札として登場したのが横断歩道橋だった。五反田駅前に東京最初の横断歩道橋が設置されたのは、オリンピック前年の1963年のことである。

 1960年に東京のひとつ前のオリンピックが開催されたローマを、当時の東都知事が視察したとき、歩道橋を見て「これだ!」と叫んだという伝説がある。この話には、実は東知事が見たのは選手村に臨時に設けられた仮設の橋だったという落ちがつく。ことの真偽は定かではないが、ローマをはじめ西欧の都市で、横断歩道橋は全くといっていいほど普及していない。景観を悪化させることが最大の要因だとされる。

 お年寄りや赤ちゃん連れの人などにとって、階段の上り下りも大きな負担だ。最近は、エレベーターやエスカレーターのついた歩道橋もあるが、道路を渡るだけなのに貴重なエネルギーを使うというのも、どこか腑に落ちない。

 東京23区内の都知事管理の道路(国直轄の国道や区道を除く)に架かる横断歩道橋の数は、2012年現在で495橋。1987年には580橋だったから、25年間で100橋近く減っている。自動車優先の発想から生まれた横断歩道橋は、時代の変遷の中で徐々に姿を消しつつある。

 もし、横断歩道橋が景観に溶け込む優れたフォルムに設計されていたら。歩道橋はもっと違う進化を遂げていたかも知れない。ふと、そう考えてしまった。

大江戸列伝銅像つづり -時代を開いた人たち- 《 観ずる東京23区 その17 》

《観ずる東京23区 その17》


     大江戸列伝銅像つづり -時代を開いた人たち-





                       東京23区研究所 所長 池田利道






四千万歩の男

 1828(文政11)年、シーボルト事件が幕府を騒然とさせる。わが国に近代医学を伝えたシーボルトが、帰国にあたり禁制品の日本地図を持ち出そうとしたのだ。地図の名は「大日本沿海輿地全図」。俗に、「伊能図」と呼ばれるものである。

 商人として大きな成功を収めた伊能忠敬は、50歳を過ぎてから天文学の勉強を始める。さしずめ定年退職後の第2の人生といったところか。全国測量の旅を始めるのは56歳のとき。72歳で最後の測量を終えるまでに歩いた距離は4万3千km。『四千万歩の男』とは、忠敬を主人公にした井上ひさしの小説だが、彼が生涯歩いた距離はとても4千万歩では済まなかったようだ。

 伊能忠敬の銅像は、深川冨岡八幡宮の境内にある。旅の始めに必ず詣でたゆかりの場所だ。同じ深川、同じ旅姿ながら、採荼庵の芭蕉像が超然とした風を漂わせているのに対し、忠敬像からは困難に立ち向かおうとする強い意志が伝わってくる。

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  富岡八幡の伊能忠敬像
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二十歳の龍馬像

 伊能忠敬が地図作りの旅に出るのは、純粋に学問的な興味からだったらしい。しかしその背景には、国防のために正確な地図を必要とする当時の世相があった。やがて、黒船の来航を契機として、時代は一気に沸騰する。それは、太平の眠りの中で溜まりに溜まったマグマの爆発であった。そう考えなければ、幕末から維新にかけての短い期間に、次々と英傑が輩出する謎が解けない。

 維新の英傑を人気投票にかければ、トップは間違いなく坂本龍馬だろう。龍馬は、19~20歳と22~24歳の2度江戸に遊学している。1回目は、1853(嘉永6)年4月から翌年6月までの15か月間。黒船来航が1853年6月だから、江戸にいた龍馬は幕府の震撼を肌で感じたはずだ。

 俄か防衛論が騒がれる中、土佐藩も品川立会川の下屋敷に隣接する鮫洲抱屋敷内に浜川砲台を築く。遊学中の龍馬は、駆り出されるようにして砲台警護の任にあたる。この若き日の龍馬像が、立会川駅前の商店街の中にある。

 龍馬の江戸遊学は、剣術修行が主目的であった。だが、黒船騒ぎが一段落した1853年12月に佐久間象山の私塾に入門するなど、時代のうねりを目の当たりにしたことが、後の龍馬に大きな影響を与えたことは想像に難くない。「日本を今一度せんたくいたし申候」。重い時代の扉を開く龍馬の原点を、二十歳の像に垣間みることができる。

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  立会川の二十歳の龍馬像
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江戸を守ったふたり、江戸を愛したふたり

 維新英傑番付の東の横綱が龍馬なら、西の横綱は西郷隆盛。上野のお山の西郷像はご存知のとおりだ。顔が似ているの似ていないのと、世間はおもしろおかしく評し立てるが、高村光雲作のこの像は、それ自体がひとつの芸術である。

 上野の西郷像は、東京にあるというより日本の首都にあるという意味が強い。だが、西郷と江戸のまちには深い繋がりがある。秒読み段階に入っていた官軍の江戸総攻撃は、西郷の最終決断によってギリギリのところで回避される。

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  上野の西郷隆盛像
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 このとき、西郷を動かし、歴史を動かしたもうひとりの立役者が勝海舟。本所生まれの海舟像は、墨田区役所の脇に建つ。前に伸ばした指先と遠い目線は、未来を見通しているようだ。墨田区には、本所4丁目の能勢妙見堂内にも海舟像がある。こちらは、洋装の胸像である。

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  墨田区役所脇の勝海舟像
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 道灌、家康、春日局、芭蕉、伊能忠敬、龍馬、西郷。考えてみれば、いずれも江戸の生まれではない。海舟にして、ようやく江戸っ子の登場だ。ならば、江戸っ子をもうひとり。

 海舟とは異なるやり方で幕臣としてのけじめをつけた榎本武揚。明治の世になって以降は、海舟と同様新政府の一員として新たな時代づくりに力を尽くす。下谷の生まれながら、墨東をこよなく愛した武揚の銅像は、墨田区の梅若公園にある。海舟像の背中を見るような位置と向きに、ふたりの事績を重ね合わすのは考え過ぎだろうか。

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  墨堤梅若公園の榎本武揚像
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東京の意外な弱点

 日暮里の道灌像、立会川の龍馬像、墨田区役所の海舟像。これらには共通点がある。いずれも地元の人たちが建てたものだ。郷土を知り、郷土を愛する心を育むうえで、郷土の偉人の銅像は分かりやすい出発点となる。地元の芸能人にばかりやたら詳しい若者も、銅像を見て郷土の歴史や文化に興味が芽生えれば、もっと深く自分たちのまちを知りたくなってくる。

 そうなったら、次は博物館の出番。ところが、東京には意外と博物館が少ない。博物館類似施設を加えた総博物館数の都道府県別順位は、1位が長野県、2位が北海道で、東京都はようやく3位。人口10万人あたりでみると、47都道府県中43位。全国平均の半分、トップの長野県と比べると7分の1しかない。何でも一番の東京にとって、手痛い弱点である。

 区役所や市役所に像はつきものだが、中身は女性像や子ども像など無難なものが多い。そんな中で、区役所の脇に郷土の偉人勝海舟の銅像を置く墨田区。この区には、文部科学省の統計には出てこない区指定の「小さな博物館」が25か所以上もある。産業をメインテーマとする「小さな博物館」は、同じく区指定の「マイスター」「工房ショップ」と三位一体をなし、“匠のまち墨田”の郷土文化を凝縮している。

 スカイツリーを見上げた後に、墨田区の足元を見つめてみよう。榎本武揚はこういった。「学びてのち足らざるを知る」と。まずは学ぶことが始まりとなる。