《 観ずる東京23区 その10 》
見えない川から見える渋谷
東京23区研究所 所長 池田利道
渋谷の50年
3月16日、東横線渋谷駅が地下に移り、地下鉄副都心線と相互乗り入れが始まった。カマボコ屋根の旧駅舎ができたのは、東京オリンピック開幕直前の1964(昭和39)年5月。当時の渋谷には、東急本店も西武もパルコも109もなかった。その後の半世紀で、渋谷は大きく発展していく。まちのめまぐるしい変貌を、東横線渋谷駅の旧駅舎は黙って見つめ続けてきた。
現在の渋谷駅には、JR山手線、JR埼京線&湘南新宿ライン、東急東横線、東急田園都市線、京王井の頭線、地下鉄銀座線、地下鉄半蔵門線、地下鉄副都心線の8つの路線が集まる。1日あたりの平均乗降客数は約300万人。乗降客が350万人を超え、ギネス認定世界一の新宿駅には及ばないまでも、池袋駅(約250万人)と共に3大ターミナルの一角を占める。乗降客数4位は北千住の約150万人、5位は東京駅の約90万人だから、ビッグ3がいかに頭抜けているかが分かるだろう。
ところがこの渋谷駅、「迷宮」さながらで、慣れていないと何とも使いにくい。谷底にあるため、駅が立体構造にならざるを得ないためだ。渋谷川がこの谷底地形を作り出した。
見えない川を歩く
渋谷川の最下流は、竹芝桟橋と日の出桟橋の間に架かる新浜崎橋。ここから、赤羽橋、麻布十番の一之橋、北里大学裏の五之橋を経て天現寺橋までは港区。港区の間は古川と呼ばれる。天現寺橋からは明治通りと並行して流れ、渋谷駅の手前で暗渠となる。
暗渠になっても、かつて川であった痕跡は随所に残っている。見えない川を遡っていこう。
渋谷駅の前で、渋谷川は本流と支流に分かれる。支流の名は宇田川。西武百貨店やパルコ、渋谷区役所の住所は渋谷区宇田川町。まずは地名に川の痕跡を見つけた。
井の頭通りを挟んで建つ西武のA館とB館が地下で繋がっていないのは、井の頭通りの下に宇田川の暗渠が埋まっているから。結構有名な話だが、半分間違っている。文化村通りを流れていた宇田川の下流を昭和の初めに暗渠化したとき、流路を付け替えて井の頭通りの下を通したのが正解らしい。
宇田川交番の前を左に進むと、奇妙なものに出合う。ガードレールが高さ20センチほどの台の上に乗っている。護岸の名残りだろうか。やがて道は「宇田川遊歩道」と名を変える。微妙なカーブの連続は、川ならではの痕跡である。
代々木八幡駅の手前で宇田川遊歩道から分かれる細い路地は河骨川の跡。水草のコウホネが群生していたことに由来する。夏には、黄色い花が川を彩ったことだろう。そして春には、岸にスミレやレンゲの花が…。河骨川の近くに住んでいた高野辰之は、この長閑な眺めを詩にする。今も歌い継がれる『春の小川』だ。河骨川跡のクネクネとした道を辿っていくと、小田急線の線路沿いに春の小川の歌碑が立つ。結構分かりにくい場所だが、見えない川が迷うことなく案内してくれた。
水道とパワーウォーターのブレンド水
渋谷川の本流は宮下公園の脇を通り、明治通りを斜めに横切る。明治通りの傍らにぽつん立つ石碑には「宮下橋」の文字。親柱の跡だろう。
ここから先はキャットストリート。お役所名では旧渋谷川遊歩道路という。
キャットストリートは、道路面より建物が建つ地盤面の方が低い。新しいビルでは分かりにくいが、住宅が続く場所では建物地盤面と道路面との間に50センチ近い段差がある。その先には、住宅が道に背を向けて建っている。ひと皮外側に一段低い道があり、建物はこの側道を正面とする。かつて川であったことの紛れもない証だ。表参道との交差部にある階段は、橋が架かっていた痕跡である。
キャットストリートの中にも、親柱の跡と思しき石碑が見つかる。刻まれた文字は穏田橋。穏田と聞いて思い出すのは、北斎『富嶽三十六景』中「穏田の水車」。大正の末頃まで、ここには複数の水車があった。1912(大正元)年に穏田に生まれた米山正夫が、ふるさとの風景を想い描いて作曲したのが『森の水車』。コトコトコットンのメロディは、米山の原体験に基づいている。
表参道を越え、道は大きな蛇行を繰り返し、やがて川の痕跡を消す。資料によると、渋谷川の源流は新宿御苑の池とのこと。池の湧水量は少なく、玉川上水の水を引き込んでいたらしい。
表参道と交わる辺りで、渋谷川はもうひとつの支流と合流する。その跡がフォンテーヌ通りからブラームスの小径。なるほど道はクネクネだし、道路との交差部は階段になっている。水源は東京有数のパワースポットとされる明治神宮の「清正の井」。とすれば、渋谷川を流れる水は、水道水とパワーウォーターのブレンドだったことになる。
東急が造ったまち
自然の美しさと厳しさを感動的に描き出した国木田独歩の名作『武蔵野』。モデルとなったのは、独歩が居を構えた渋谷。NHKと道路を挟んだ向かい側に、「国木田独歩住居跡」の碑が立つ。渋谷駅から、歩いてほんの十数分の場所だ。
小川がさらさら流れ、水車がコトコト回り、楢林を木枯らしが吹き抜ける。明治・大正時代の渋谷は、東京の片田舎だった。その渋谷の発展の礎を築いたのは、東急の総帥五島慶太である。
阪急を創業した小林一三を師と仰ぐ五島は、小林が編み出した私鉄経営のビジネスモデルを忠実に再現していく。沿線の住宅開発を行い、郊外にアミューズメントパークを設け、ターミナルに百貨店を開く。上り下りも、朝も昼も夜も、満遍なく鉄道利用客を生み出すためだ。こうして1934(昭和9)年、関東初の電鉄系ターミナルデパートとして東横百貨店が開業する。
もっとも、温泉と少女歌劇で賑わう宝塚に比べ、玉川遊園地(後の二子玉川園)ではあまりにもパンチに欠ける。それならばと、小林に先立って沿線の学校誘致に力を入れ、百貨店にも秘策を繰り出す。1951(昭和26)年、東横百貨店(現・東横店東館)と玉電ビル(現・西館)を結ぶロープウェイの出現は、人々の度肝を抜いた。だが、あえなく2年で廃止。同じ1951年には、東横百貨店1階に「東横のれん街」をオープン。こちらは大成功を収める。当時、電鉄系百貨店よりはるかにランクが高かった老舗専門店を集めた日本初の名店街は、デパチカの元祖となる。
「東横のれん街」は、デパチカならぬデパイチ。そもそも東横店東館には地階がない。地下に渋谷川が流れているからだ。
動き始めた渋谷大改造
振り返ってみれば、渋谷は50年のサイクルでまちが大きく変化してきた。最初の50年は東京の片田舎。次の50年で発展の基礎が築かれ、続く50年で大きな飛躍を遂げる。そして未来の50年に向け、今渋谷の大改造が始まろうとしている。東横線の地下化は、そのステップに過ぎない。
計画は3つのエリアで構成される。渋谷駅を建て替える「駅街区」。旧東横線の線路跡地を活用した「南街区」。西口の東急プラザ一帯を再開発する「道玄坂街区」。総延床面積は45万㎡。昨春オープンしたヒカリエを加えると59万㎡を超え、東京ミッドタウン(約57万㎡)を上回る。
これに伴い、東横店東館は3月一杯で閉館し、「東横のれん街」はマークシティに移転する。渋谷川も、地下の暗渠が流路変更され、地上部には清流が復活するとのことだ。
それにしても、大改造で渋谷駅は分かりやすくなるのだろうか。計画では、地下、地上、連絡デッキの縦動線と横動線を結節する「アーバンコア」を各所に設けるという。しかし、先行して導入されたヒカリエのアーバンコアは、少なくとも現時点では、さほど動線誘導性に優れているとも思えない吹き抜けエレベータ空間に止まっている。
「迷宮でいいじゃないか。迷宮の魅力を楽しませることこそ、知恵の出しようじゃあないのかい」。地下生活先輩格の渋谷川が、後輩の東横線にそうつぶやいているかも知れない。果たしてどうなることやらは、今後のお楽しみとしておこう。