《観ずる東京23区 その2》
菊と文京
東京23区研究所 所長 池田利道
菊見せんべい
菊を尋ねて、文京区に行った。
最初に訪れたのは千駄木。団子坂下に、いかにも老舗らしい店構えのせんべい屋がある。明治8年創業の菊見せんべい。といっても、せんべいが菊の形をしている訳でもないし、菊の模様が押されている訳でもない。定番は、ごくオーソドックスなしょうゆせんべいだ。ちょっと変わっているといえば、真四角なこと。その形は、創業以来変わっていないという。
団子坂は、幕末から明治にかけて菊人形の一大メッカだった。明治文学には、その賑わいを描いた作品が多い。二葉亭四迷の『浮雲』。森鷗外の『青年』。なかでも記憶に残るのは、夏目漱石の『三四郎』だろう。三四郎の心を悩ませ続ける「ストレイシープ(迷える子)」なる言葉を、美禰子から投げ掛けられるのが団子坂菊人形見物の場面。物語中盤のクライマックスシーンである。
団子坂の菊人形は、明治44年の興行を最後に打ち切られ、菊見物のお土産として生まれた菊見せんべいだけが、往時の名残りを今に伝えている。
観潮楼の大いちょう
団子坂に来たら、ぜひ立ち寄りたい場所がある。坂上に今年の11月1日にオープンした「森鷗外記念館」だ。鷗外がその半生を家族と共に暮らした旧居「観潮楼」の跡に建つ。
建物は何度か建て替えられているが、藪下通り側の正門の敷石、庭の大いちょう、鷗外・幸田露伴・斎藤緑雨に因む「三人冗語の石」などは、今もその姿を残す。なかでも必見は、戦火で焼かれながらも見事に蘇った大いちょうの樹。秋も半ばだというのに、青々とした葉を茂らせている。
正門を出ると大きく眺望が開け、ここが坂上の高台にあると改めて納得する。「観潮楼」と名づけたのだから、明治の昔には海が見えたのだろうか。今は、眼下に谷根千のまち並みが続く。
藪下通りを根津に向けて歩くと、漱石の「猫の家」も近い。
湯島天神菊まつり
本物の菊は、湯島天神にあった。湯島天神といえば梅が思い浮かぶが、菊も見事だ。千本咲、大懸崖などの「大作り」をはじめ、約2千株の菊の花が境内を埋め尽くす。拝殿も大懸崖の菊に彩られる。
時あたかも七五三。子どもたちのすまし顔が微笑みを誘う。ちょっと疲れ顔の君。もう少し我慢しよう。湯島天神は学問の神様だ。七五三の参拝にここを選んだお父さん、お母さんの思いに気づく日が、きっと来るに違いない。
なぜ湯島天神は文京区にあるのか。由来は不明にして定かでないが、学問というキーワードを考えると平仄が合う。現在東京23区内に本部を置く6つの国立大学のうち、東京大学、東京医科歯科大学、お茶の水大学の3校の本部が文京区にある。私大も多い。15歳以上の昼間人口に占める通学者の割合は、文京区が17.0%でダントツの1位だ。23区平均(6.3%)の3倍に近く、2位の豊島区(12.1%)と比べても飛び抜けて高い。
大学の数が少なかった明治・大正の時代はなおさらだった。「文(ふみ)の京(みやこ)」である文京区は、まさに学問の府。数多くの若き英才たちがこの地から育っていく。文学の世界もまた然りである。
一葉ゆかりの井戸と質屋
本郷3丁目の交差点から赤門の方に数十m。パチンコ屋と焼き鳥屋の間を左に入ると、ダラダラ下る坂がある。
坂の中ほどにある四つ辻を右に曲がり、急坂を上って左に折れた付きあたりの崖際に「本郷菊富士ホテルの跡」の石碑。ホテルというより高等下宿で、大正から昭和の初めにかけて数多くの文化人が寄宿し、一大文芸サロンの様を呈した場所だ。
崖下は、水処理のオルガノの敷地で、その一角には啄木が一時身を寄せた赤心館の跡がある。先程の四つ辻を左に曲がって春日通りに抜けた喜之床の跡は、朝日新聞の校正係の職を得た啄木が、家族そろって間借りした床屋の跡である。建物は「明治村」に移築されているが、理髪店は代々受け継がれ、今も同じ場所で営業を続けている。
もう一度四つ辻に戻る。坂と併行して細い裏道が通る。本道より一段低いこの裏坂道を下っていくと、宮沢賢治旧居跡の案内版。さらに進んで、銭湯の少し手前の路地を入ると、昔懐かし手押しポンプの井戸。樋口一葉は、この路地沿いに暮らした。井戸は今では防災用だが、当時はつるべの共同井戸で、一葉もここで毎日水を汲んだのだろう。
本道沿いの白壁の土蔵は、赤貧にあえぐ一葉が風呂敷包みを抱えて通い詰めた伊勢屋質店。「蔵のうちに はるかくれ行 ころもがへ」。樋口家の衣装は、衣替えの季節がくると伊勢屋の蔵に収まった。
ところで、一葉や啄木や賢治が菊と何の関係があるのか。答えは、坂下の交差点の名称表示板にあった。菊坂下。そう、坂の名は菊坂。
文京区で、菊づくしの秋の一日が暮れた。