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菊と文京 《観ずる東京23区 その2》

《観ずる東京23区 その2》


      菊と文京


                     東京23区研究所 所長 池田利道


菊見せんべい

 菊を尋ねて、文京区に行った。

 最初に訪れたのは千駄木。団子坂下に、いかにも老舗らしい店構えのせんべい屋がある。明治8年創業の菊見せんべい。といっても、せんべいが菊の形をしている訳でもないし、菊の模様が押されている訳でもない。定番は、ごくオーソドックスなしょうゆせんべいだ。ちょっと変わっているといえば、真四角なこと。その形は、創業以来変わっていないという。

 団子坂は、幕末から明治にかけて菊人形の一大メッカだった。明治文学には、その賑わいを描いた作品が多い。二葉亭四迷の『浮雲』。森鷗外の『青年』。なかでも記憶に残るのは、夏目漱石の『三四郎』だろう。三四郎の心を悩ませ続ける「ストレイシープ(迷える子)」なる言葉を、美禰子から投げ掛けられるのが団子坂菊人形見物の場面。物語中盤のクライマックスシーンである。

 団子坂の菊人形は、明治44年の興行を最後に打ち切られ、菊見物のお土産として生まれた菊見せんべいだけが、往時の名残りを今に伝えている。


観潮楼の大いちょう

 団子坂に来たら、ぜひ立ち寄りたい場所がある。坂上に今年の11月1日にオープンした「森鷗外記念館」だ。鷗外がその半生を家族と共に暮らした旧居「観潮楼」の跡に建つ。

 建物は何度か建て替えられているが、藪下通り側の正門の敷石、庭の大いちょう、鷗外・幸田露伴・斎藤緑雨に因む「三人冗語の石」などは、今もその姿を残す。なかでも必見は、戦火で焼かれながらも見事に蘇った大いちょうの樹。秋も半ばだというのに、青々とした葉を茂らせている。

 正門を出ると大きく眺望が開け、ここが坂上の高台にあると改めて納得する。「観潮楼」と名づけたのだから、明治の昔には海が見えたのだろうか。今は、眼下に谷根千のまち並みが続く。

 藪下通りを根津に向けて歩くと、漱石の「猫の家」も近い。

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 森鷗外記念館
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湯島天神菊まつり

 本物の菊は、湯島天神にあった。湯島天神といえば梅が思い浮かぶが、菊も見事だ。千本咲、大懸崖などの「大作り」をはじめ、約2千株の菊の花が境内を埋め尽くす。拝殿も大懸崖の菊に彩られる。

 時あたかも七五三。子どもたちのすまし顔が微笑みを誘う。ちょっと疲れ顔の君。もう少し我慢しよう。湯島天神は学問の神様だ。七五三の参拝にここを選んだお父さん、お母さんの思いに気づく日が、きっと来るに違いない。

 なぜ湯島天神は文京区にあるのか。由来は不明にして定かでないが、学問というキーワードを考えると平仄が合う。現在東京23区内に本部を置く6つの国立大学のうち、東京大学、東京医科歯科大学、お茶の水大学の3校の本部が文京区にある。私大も多い。15歳以上の昼間人口に占める通学者の割合は、文京区が17.0%でダントツの1位だ。23区平均(6.3%)の3倍に近く、2位の豊島区(12.1%)と比べても飛び抜けて高い。

 大学の数が少なかった明治・大正の時代はなおさらだった。「文(ふみ)の京(みやこ)」である文京区は、まさに学問の府。数多くの若き英才たちがこの地から育っていく。文学の世界もまた然りである。

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 湯島天神菊まつり
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一葉ゆかりの井戸と質屋

 本郷3丁目の交差点から赤門の方に数十m。パチンコ屋と焼き鳥屋の間を左に入ると、ダラダラ下る坂がある。

 坂の中ほどにある四つ辻を右に曲がり、急坂を上って左に折れた付きあたりの崖際に「本郷菊富士ホテルの跡」の石碑。ホテルというより高等下宿で、大正から昭和の初めにかけて数多くの文化人が寄宿し、一大文芸サロンの様を呈した場所だ。

 崖下は、水処理のオルガノの敷地で、その一角には啄木が一時身を寄せた赤心館の跡がある。先程の四つ辻を左に曲がって春日通りに抜けた喜之床の跡は、朝日新聞の校正係の職を得た啄木が、家族そろって間借りした床屋の跡である。建物は「明治村」に移築されているが、理髪店は代々受け継がれ、今も同じ場所で営業を続けている。

 もう一度四つ辻に戻る。坂と併行して細い裏道が通る。本道より一段低いこの裏坂道を下っていくと、宮沢賢治旧居跡の案内版。さらに進んで、銭湯の少し手前の路地を入ると、昔懐かし手押しポンプの井戸。樋口一葉は、この路地沿いに暮らした。井戸は今では防災用だが、当時はつるべの共同井戸で、一葉もここで毎日水を汲んだのだろう。

 本道沿いの白壁の土蔵は、赤貧にあえぐ一葉が風呂敷包みを抱えて通い詰めた伊勢屋質店。「蔵のうちに はるかくれ行 ころもがへ」。樋口家の衣装は、衣替えの季節がくると伊勢屋の蔵に収まった。

 ところで、一葉や啄木や賢治が菊と何の関係があるのか。答えは、坂下の交差点の名称表示板にあった。菊坂下。そう、坂の名は菊坂。

 文京区で、菊づくしの秋の一日が暮れた。

池上線とお会式  《観ずる東京23区 その1》

新連載 《観ずる東京23区 その1》

    池上線とお会式


           東京23区研究所 所長 池田利道


池上線90歳

 池上線が90歳を迎えた。建設工事は、今では終点の蒲田の方から始まり、蒲田-池上間が開業したのが1922(大正11)年10月6日。関東大震災が東京を襲う1年前のことだった。

 関東大震災を契機に、東京には民族大移動が起きる。被災した都心から、郊外への移住が進んだのだ。この動きに歩を合わすように、東京の私鉄網も整備されていく。小田急、西武、東急、京急、京王、京成、東武の各線は、昭和の初めまでにほぼ現在の路線網が完成する。

 関東大震災前に開業した池上線は、東京の私鉄の中ではパイオニアの仲間に入る。現在営業している東急の路線の中では最も古いし、小田急線も西武新宿線も井の頭線も後輩である。

 池上線は、なぜこんなに早く建設されたのか? この謎を解くキーワードは「池上」。池上本門寺への参拝客輸送という需要があったからだ。


日蓮上人入滅の地

 池上駅から参道商店街を抜け、呑川を渡ると本門寺の総門。加藤清正が寄進したと伝えられる96段の石段を登り境内に着く。

 1282(弘安5)年10月13日、日蓮上人はこの地で没する。病を得、常陸の国に湯治に向かう途中のことだった。上人の死を悼み、地元の豪族池上宗仲は、法華経の文字数と同じ69,384坪の土地を寺領として寄進する。池上本門寺開基の縁起である。

 お会式は、日蓮上人の命日を供養する法要で、ハイライトは命日の前夜(お逮夜)に行われる「万灯練供養(万灯行列)」。早々と場所取りをしている人もいるが、せっかく来たのだからしばらく境内を散策しよう。

 仁王門の手前を五重塔の方に入ると、墓域が広がる。熊本藩細川家、米沢藩上杉家の墓所をはじめ、七代目松本幸四郎、幸田露伴、眠狂四郎の市川雷蔵などなど。お墓フリークには垂涎の場所だ。

 墓域の奥には、裸で腕を組んだ男性の胸像。力道山の墓だ。街頭テレビの前に国民を釘づけにした昭和のスーパーヒーローは、今池上に静かに眠る。


万灯練供養はエレクトリカルパレードだ!

 秋の陽がつるべ落としに暮れる頃、万灯行列が始まる。万灯行列は光と音のパレードだ。
 
 光はもちろん万灯。全国各地から集まった講中(信徒の集まり)が、それぞれに意匠を競う。五重塔を摸したものあり、行灯型あり、提灯を連ねたものあり。その数、百数十基。すべてに共通しているのは、紙で作った造花で飾られていること。日蓮上人が亡くなった時、秋だというのに桜が季節外れの花を咲かせたという故事に因む。

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 音の方は、鉦や笛も混じるが、圧倒するのは太鼓。お題目を唱えながら練り歩く信徒たちが、一斉に打ち鳴らす団扇太鼓の音だ。

 行列を先導するのは纏。えっ、纏? 仏教の法要にいささかミスマッチな纏の由来には諸説がある。山号である長榮山の「榮」の字が火除けの意味をもつことから、江戸の火消し衆が参拝する折に始めたという説。明治時代に浅草下谷の講中が、消防団の火消し装束に纏を振って景気をつけたのが始まりだという説。起源はともあれ、纏は今やお会式に欠かせない存在である。

 纏を振るには結構力が要るが、鮮やかに纏を操る女性も交じる。「いよっ、粋だね!」 思わず声が飛んだ。

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東京のローカル線

 お会式の日には臨時列車が出る池上線も、その後は再び普段の姿に戻る。

 池上線(10.9km)と輸送延長がほぼ似通った私鉄他路線との輸送量を比べると(以下、輸送延長、輸送量ともに東京都内分のみの数値)、東急田園都市線(11.8km)の6分の1、東武東上線(10.4km)の5分の1、京急本線(11.8km)の4分の1。山手線と接続していない東急大井町線(10.4km)と比べても半分に満たない。

 地上4階の高さにある五反田駅で、山の手線との連絡階段にエスカレーターが設置されたのは、ようやく今年に入ってからのこと。池上線は、東京のローカル線である。

 ちなみに、五反田駅が地上4階にあるのは、山の手線を越えて白金・高輪方面に延伸する計画が、かつてあったことの名残り。延伸計画は実現しないまま、五反田駅の不便さだけが残ってしまった。

 時代は移り、東京の私鉄は地下鉄との相互乗り入れが進み、都心直通電車を次々と実現させていく。「あってもなくてもどうでもいい」と唄われた目蒲線も、2000年に南北線・都営三田線との相互乗り入れを果たす。

 そんな弟分の活躍を一向気にする風もなく、3両編成の池上線は、今日もトコトコ走り続ける。

夫婦、この不可思議なるもの 《国勢調査雑感 その7》

夫婦、この不可思議なるもの

   -夫婦の年の差アラカルト-

         東京23区研究所 所長 池田利道


友達夫婦が増えている

 夫婦の年の差。何となく気になるテーマだ。だからという訳でもあるまいが、「人口動態統計」はその年に結婚した夫婦の平均年齢差を、過去100年以上にわたり延々と発表し続けている。一方、「国勢調査」では、夫の年齢71区分×妻の年齢71区分の膨大なマトリックスデータが公表されている。

 まずは人口動態統計から。第2次世界大戦以前、夫婦の平均年齢差は4.5~5歳だった。それが2010年は2.2歳。夫婦の年の差は、戦後一貫して縮小し続けている。

 年の差が縮まって行きつく先は、「同い年夫婦」。国勢調査の大マトリックスから、東京23区の同い年夫婦の割合を夫の年齢別に整理してみよう。70代が7%、60代が10%に対し、30代では17%、10代・20代では23%。10代・20代は、70代より3倍以上も多い。

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 ※図はクリックで拡大

 国立社会保障・人口問題研究所の「出生動向基本調査(結婚と出産に関する全国調査)」によると、戦前は7割が見合い結婚だった。どこの町内にも縁結びを天職とする世話焼きおばさんがおり、夫婦の年の差は「神の手」ならぬ彼女らの匙加減に委ねられていた。時代は変わり、現在は9割近くが恋愛結婚。現代人の社会的な帰属集団は、同窓、同僚など“同期”が基本となる。その中で、パートナーとの運命の出会いを探すとなると、同い年夫婦が増えるのも頷けよう。


姉さん女房は自然の摂理

 国勢調査のデータをみると、若い世代ほど多いもう1つの夫婦の年の差パターンがある。姉さん女房だ。

 俗に、「年上の女房は金の草鞋を履いてでも探せ」という。「姉女房は身代の薬」という言葉もある。しっかり者で包容力があり、夫を立てる姉さん女房は、家庭円満の秘訣と昔の人は考えた。少なくとも、女性の方が平均寿命が長いのだから、妻の方が年上というのは理にかなっている。

 「人口動態統計」による女性の平均初婚年齢は、戦前は23歳前後。戦後も1970年代初めまでは、24歳前後だった。この年齢で、経済的に安定した新家庭を築くとなれば、夫が年上になるのは自然の結果である。しかし、2011年の女性の平均初婚年齢は29歳。年下男性でも経済的基盤を心配する必要がなくなった。晩婚化が、自然の摂理への回帰を生んだといえなくもない。


練馬では、金の草鞋が良く売れる?

 23区で姉さん女房が一番多いのは練馬区。実は練馬区は、40代女性の姉さん女房の割合が27%と23区の平均(19%)を大きく上回っている。30代は21%(23区平均22%)、50代は17%(同16%)だから、40代だけが突出して高い。*

 練馬区以外で姉さん女房の割合が高いのは、中央区、江東区、江戸川区、北区の順。逆に低いのは、杉並区、千代田区、文京区、世田谷区、目黒区、港区など。2位から10位までの差は0.8ポイントしかなく、高い方に関しては統計的に有意な差があるとはいい難いが、低い方ははっきりとした傾向が読み取れる。山の手地区と都心地区が顔を揃えていることだ。

 山の手も都心も、こと結婚に関しては意外に保守的である。

* 23区平均の年代別姉さん女房の割合が図と異なるのは、図は夫の年齢別で集計しているためである。


年の差64歳に“乾杯”

 同い年夫婦や姉さん女房が増えているとはいえ、そこは夫婦。色々な組合せがある。

 例えば、年齢差が10歳以上の「年の差カップル」は6.7%。15組に1組の割合だから結構多い。さらに6.7%の内訳は、夫の方が年上5.9%、妻の方が年上0.8%。圧倒的に夫が年上が多く、姉さん女房の増加傾向とは逆の関係にある。

 年の差カップルが最も多いのは港区。以下、新宿区、中央区、豊島区、千代田区、渋谷区と続く。都心区、副都心区のオンパレードだ。やっぱり都心は跳んでいる。

 一方、少ない方は、杉並区、江戸川区、世田谷区、葛飾区、板橋区。周辺区ばかりである。地域コミュニティが根強く残り、個人のプライバシーを主張するだけでは暮らしがギクシャクする周辺区では、年の差カップルはいささか住みにくいのかも知れない。

 ところで、周辺区の中で練馬区だけは例外となる。夫が10歳以上年上の割合は23区中最低なのだが、例外は妻が年上の方。その割合は23区で一番高い。なかでも、妻の年齢44~50歳の年代では、妻が10歳以上年上の割合が6.0%と、23区平均(1.4%)の4倍以上にのぼっている。何故に練馬区の中年女性は年下好みなのか? お気づきの理由がある方は、是非教えて戴きたい。

 23区一の年の差カップルは夫80歳、妻16歳。その差何と64歳。足立区にお住まいだ。45歳の年の差で話題になった加藤茶さんもビックリだろうが、夫婦仲が睦まじければ他人がとやかくいうことではない。お幸せにと願うばかりである。

                    〈 完 〉

コンパクト化する東京 《国勢調査雑感 その6》

コンパクト化する東京

-1200万人の昼間人口に潜む意外な事実-

         東京23区研究所 所長 池田利道


23区昼夜間人口比率低下の怪

 東京23区の昼間人口は1,170万人。日本の人口の9.1%に相当する。東京23区の面積は全国土の0.16%に過ぎないから、600分の1の土地に総人口の11人に1人がひしめき合っていることになる。

 夜間人口100人に対する昼間人口の割合を「昼夜間人口比率」という。2010年の東京23区の昼夜間人口比率は130.9。2005年の135.1から4ポイント以上低下した。一見すると、東京への集中度が低下しているようにみえる。

 だが、昼間人口の実数は3.8%増えている。2000年~2005年の1.4%増と比べると、むしろ増加の傾向が強まっている。昼夜間人口比率が下がっているのは、それ以上に夜間人口が増えているからに他ならない。

 統計指標のマジックに惑わされると、思わぬ落とし穴にはまり込んでしまう。東京の昼夜間人口比率の動向は、その典型といえるだろう。


“群雄割拠”始まる?

 昼間人口の動向を区別にみると、増えている所と減っている所がある。過去5年間で昼間人口が増えたのは17区、減ったのが6区。どこが増えて、どこが減っているのか。昼夜間人口比率と組み合わせると、1つの傾向が浮かび上がってくる。

 東京23区には、昼夜間人口比率が200を超える「超中心区」が5区ある。150~200の「中心区」が2区。100~150の「サブ中心区」が5区。残る11区は、昼夜間人口比率が100を下回る「郊外区」である。

 超中心5区は、そのすべてで昼間人口が減少している。中心2区は台東区が減、文京区が増と明暗が分かれるが、文京区の増加率は昼間人口が増えた17区中の下から2番目に止まる。対して、サブ中心5区と郊外11区はいずれも昼間人口が増加。なかでも、足立、江東、豊島、練馬、世田谷の各区は増加率が10%を超える。ただし、これらの中でサブ中心区に入る豊島区と江東区は、夜間人口の急増(それぞれ2位、5位)が昼間人口の増加を後押ししている面も否定できない。

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 東京の昼間人口は、都心3区を頂点とした富士山型の一極集中構造をもつ。この構造がそう簡単に変わるものではないにせよ、昼間人口が都心で減少し、周辺郊外区で増えていることは、奥深い変化の胎動を感じさせるデータである。


仕事の「地産地消」化

 昼間人口は、「夜間人口+流入人口-流出人口」で求められる。東京で始まり出した昼間人口の地殻変動の実態に迫るには、流入人口、流出人口という要素にまで踏み込む必要がありそうだ。

 東京23区の過去5年間の流入人口の増加率は▲5.5%。江東区を除くすべての区で流入人口が減少した。流入人口が減ることは、働く場所としての求心力が低下することを意味する。結果、仕事を求めて流出する人が増える。これが天秤の法則だ。ところが、23区では流出人口も4.3%減っている。例外は都心3区だが、これは夜間人口が急増し、区外で働く人が都心ライフの魅力を求めて移り住んできた結果であり、少し意味が違う。

 流入人口も流出人口も減り、区境を越えて通勤する人が少なくなった。つまり、仕事に関する各区内での自己完結度が高まった。言葉を換えれば、仕事の「地産地消」が進んだことになる。


「花見酒」が未来を開く

 流入人口、流出人口がともに減少しているのは、高齢化が進み働く人が少なくなったからだろうという反論も聞こえてきそうだ。だが、東京23区昼間就業者数(昼間人口のうちの就業者の数)は、この5年間で0.8%しか減っていない。これでは、流出入人口の両面にわたる減少を説明することは不可能だ。やはり、人々が地元で働く傾向が強まったと考えざるを得ない。

 そうはいっても、地元就業の主要な受け皿だった町工場も、小売店や飲食店も、おしなべて元気を失いつつある。2005年と2010年では産業分類の見直しがあったため単純な比較はできないものの、メジャーな産業はいずれも昼間就業者が減っている。そうした中で、はっきりと就業者が増えているのは、情報通信業と医療・福祉の両分野だ。

 情報通信業は、パソコン1台あればどこでも仕事ができそうなイメージとは裏腹に、都心への集中志向が強い業種である。これに対して医療・福祉、なかでも福祉は、地域密着型産業の典型だ。今日、SOHOタイプのニューコミュニティビジネスが、この分野から数多く生まれ出している。

 落語の「長屋の花見」の一席。1960年代初めに『花見酒の経済』を上梓した笠信太郎氏は、底の浅い当時の日本経済を「花見酒」と揶揄した。しかし、改めて考えてみると、この噺は貨幣の意味を鋭くとらえた経済訓話なのだ。お金は貯め込んでいては雀の涙ほどの利子しか生まないが、ぐるぐると流通すると額面の何倍もの価値を創出する。米屋が魚を買い、魚屋が野菜を買い、八百屋が肉を買い、肉屋が酒を買い、酒屋が米を買い…。商店街は花見酒の経済で成立していた。これを現代用語では、コミュニティビジネスと呼ぶ。

 コンパクトシティの形成が、まちづくりの大きな課題となっている。考えてみれば、昔のまちはコンパクトシティそのものだった。その現代版アレンジが、今東京で始まり出している。

おかみさんのまち、奥さまのまち 《 国勢調査雑感 その5 》

おかみさんのまち、奥さまのまち

-(続)主婦の就業率が示す、もう1つの東京の素顔-


              東京23区研究所 所長 池田利道


「目黒のさんま」
 
 刑事コロンボの「うちのかみさんが…」は、原語では単に“My Wife”だそうだ。これを、「私の奥さんが…」と訳したら、全く味気がなくなってしまう。

 もともと商家や職人の主婦を「(お)かみさん」、武家の主婦を「奥さま」と呼んだ。身分社会だった江戸のまちでは、おかみさんエリアと奥さまエリアは、はっきりと分かれていた。神田・日本橋、つまり千代田区と中央区の北半分が由緒正しきおかみさんエリア。その後、浅草、本所、深川などに広がり、関東大震災以降は一気に荒川の西側一帯がおかみさんエリアとなる。

 奥さまエリアの方は、千代田区の南半分を中心に、港区、文京区、新宿区の一部など。今日、奥さまエリアの代表とされる世田谷、杉並、目黒などは純農村で、いわば「かかあ」の世界だった。
 落語の「目黒のさんま」は、目黒が農村だったことを知らなくては面白さが半減してしまう。


あこがれの専業主婦

 奥さまのまちとおかみさんのまちを、データで分ける指標はあるのだろうか。

 商店でも、町工場でも、はたまた農家でも、主婦は主要な労働力だ。これは、今も昔も変わらない。一方、つい数世代前までは、サラリーマン家庭では専業主婦がごく当たり前だった。武士はサラリーマンであり、その伝統を受け継いだのが現代のサラリーマンである。

 農家や商人の娘たちは、サラリーマンと結婚し、専業主婦になることにあこがれた。高度経済成長の時代とは、いわば日本の国民がこぞってサラリーマン化していく時代である。この激動の時代の中で、男たちは「いずれ社長になる」という夢を描き、結局その大半が挫折する。片や女たちは、専業主婦の夢をしっかりと実現させた。

 「だから、女性は遅れていたのだ。いや、遅らされていたのだ」と、フェミニストたちは声を張り上げる。なるほどそれも1つの見方だろう。しかし、多くの女性が専業主婦にあこがれた時代が、そう遠くない過去に存在していた事実は否定することができない
足立も江戸川も奥さまのまち

 話を戻して、現代版「おかみさんのまち」と「奥さまのまち」を、主婦の就業率を手掛かりに色分けしてみよう。

 おかみさんのまちのトップは、主婦就業率59%の台東区。以下、中央、墨田、千代田、荒川と続く。中央区と千代田区は、「心も懐も豊かに」を体現する新たな都心ライフスタイルの影響も感じさせるが、都心ライフスタイルの象徴ともいえる港区の主婦就業率が10位に止まることを考えると、やはり神田・日本橋の伝統を無視できない。

 奥さまのまちの方は、杉並、中野、北、練馬、世田谷の順。北区の主婦就業率が低いのは、同区が23区で一番高齢化しているためで、64歳以下の主婦に限ると就業率は23区の平均を超えている。

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 興味深いのは、荒川以東の東部3区だ。葛飾区は11位で、かろうじて23区の上位半分に滑り込んではいるものの、足立区は18位、江戸川区は16位。ちなみに、両区に挟まれた17位は、これまた誰もが納得する奥さまのまち目黒区である。

 山の手線は山の手を走っているからその名がついた。今、私たちがイメージする山の手エリアは、実は「新山の手」だ。同様に下町も、時代につれて移ろっている。寅さん、両さんのまち葛飾をはじめとして、今や東部3区は下町の代名詞となった感があるが、少なくとも足立区(ただし、千住を除く)と江戸川区は、高度成長期に宅地化が進んだ新興住宅地である。データは、その実態を正直に伝えている。


おかみさんのまちパワーが少子化を救う

 山の手(正しくは「新山の手」)と下町できれいに分かれる主婦
の就業率も、若い世代では少し様相が異なってくる。

 30代主婦の就業率が低いのは、江戸川、練馬、世田谷、足立、杉並、葛飾、大田。すべて周辺区である。高い方は、中央、品川、豊島、台東、渋谷。こちらは中心部の区が並ぶ。おかみさんのまちというよりは、キャリアウーマンのまちと呼んだ方がしっくりする顔ぶれである。

 そんな中で、トレンディという印象がさほど強い訳ではない品川区が2位に名を連ねていることは注目に値する。品川区は、未就学児に対する保育待機児童の割合ベスト2、休日保育実施率2位、学童クラブの登録児童数の割合はダントツの1位と、子育て環境の優等生だ。住民総出で子どもを見守る取り組みの先駆者であるなど、ソフト面での子育て支援も充実している。

 主婦が働くには、どうしても周囲の手助けを必用とする。それは決して新しい課題ではない。子育ても、お年寄りの世話も、時によっては夕飯のおかずの準備まで、おかみさんのまちでは隣近所が手助けしてきた。

 主婦が働くおかみさんのまちは、共助の心が息づくまちだ。そうでなければ安心して働けないし、「産みたいけれど産めない」という問題も解決しない。事実、品川区では子どもの数が増えている(詳細は、http://diamond.jp/articles/-/20209)。

 「おかみさんパワー」ならぬ「おかみさんのまちパワー」。そこに、少子化の難問を解くカギが潜んでいる。