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本所吉良邸  《 観ずる東京23区 その36 》

 《 観ずる東京23区 その36 》


           本所吉良邸




                       東京23区研究所 所長 池田利道



義士祭と吉良祭

 12月14日は赤穂四十七士討ち入りの日。実際は翌15日の未明だったらしいが、事実はともあれ史実としての忠臣蔵の討ち入りは14日に決まっている。

 目指すは本所吉良邸。両国駅の南に、なまこ塀に囲まれた小さな公園がある。昭和の初め、旧吉良邸の一画を地元の有志が購入し、当時の東京市に寄付してできた「本所松坂町公園」である。

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  吉良邸跡
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 12月14日には、赤穂浪士ゆかりの地の例に違わず、本所松坂町でも「義士祭」が催される。同時に12月14日に近い土曜・日曜には、「吉良祭」も開かれる。「吉良祭」では、地元手づくりの露店が並ぶ「元禄市」が併催され、実は名君だったといわれる吉良上野介や、討ち入りで命を落とした吉良の家臣を賑やかに偲ぶ。吉良も浅野も、敵も味方もない。これぞ下町人情の真骨頂。今年は14日が土曜日にあたるため、「義士祭」と「吉良祭」が同じ日となり、本所の人たちの優しさがなお一層引き立った。

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  吉良上野介の像
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AKOは46、47、48?

 本懐を遂げた四十七士が向ったのは、主君浅野匠頭が眠る高輪泉岳寺。その後、幕府に自首し、大石内蔵助ら17名は細川家下屋敷に、10名は伊予松山松平家中屋敷に、10名は長府毛利家上屋敷に、9名は岡崎水野家中屋敷に預けられ、切腹後揃って泉岳寺に葬られた。泉岳寺境内の赤穂義士墓所には今も参拝の人が絶えない。

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  泉岳寺義士墓所入口の門
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  赤穂義士の墓
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 泉岳寺には、「首洗井戸」や「血染の石」などの史跡も多い。見逃せないのが義士墓所入口に建つ門。浅野家鉄砲洲上屋敷の裏門を移築したもので、小ぶりながら大名屋敷の風格を感じさせる。

 ところで、各大名お預けの人数を足すと46人。一方、泉岳寺の義士墓地にある墓の数は合わせて48。赤穂義士は一体何人だったのか。

 マイナス1は寺坂吉衛門。足軽だった吉衛門は、討ち入り後姿を消す。逃亡説もあるものの、大石の密命を受けて仇討本懐の報せを関係各所に伝えたとするのが通説。後に自首するが罪に問われず、天寿を全うする。この吉衛門の供養墓も、泉岳寺に祀られている。

 プラス1は、『お軽堪平』のモデルとなった萱野三平。実際は駆落ちの果てではなく、主君への義と親への孝の板挟みに合って討ち入り前に自害した。その思いを踏まえ、義士列柱のひとつに並ぶ。


テロか、義挙か

 赤穂浪士がお預けとなった細川家下屋敷は今の高松宮邸一帯。松山松平家中屋敷はイタリア大使館。長府毛利家上屋敷は六本木ヒルズ。岡崎水野家中屋敷は田町駅近くにあった。各所とも史跡が散逸し、かろうじて高松宮邸の近くに「大石良雄外十六人忠烈の跡」が残されているに止まる。

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  大石良雄外十六人忠烈の跡
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 今にして思えば、4家はそれぞれに頭を悩ませたことだろう。赤穂浪士の行為は正義か不正義かが、討ち入り後喧々諤々の議論となったからだ。

 深夜徒党を組んで他家に押し入り、主人の首をはねたのだから、今でいえばテロ以外の何物でもない。しかも、御家再興がならなかったから討ち入りに及んだ彼らの動機は私怨に尽きる。その一方で、武士がかつての戦闘集団から官僚への路を歩む時代に抗う人々からは、浪士の行動を「武士の鑑」と称賛する声もあがった。幕府の評定が磔獄門から無罪放免まで揺れ続ける中で、浪士を預かった各大名家の対応に差が現れたのは当然の結果だったろう。浪士に好意的だったのが細川家と水野家。浪士を冷遇したのは毛利家、松平家。

 「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の 沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」。注目すべきは、狂歌を詠んだ庶民は圧倒的に浪士びいきだったことだ。


ツナノミクス

 赤穂浪士の討ち入りが行われたのは元禄15(1702)年。五代将軍綱吉の治下である。

 元禄以前、徳川幕府は長いデフレに苦しんでいた。さらに追い打ちをかけたのが明暦3(1657)年に起った明暦の大火。江戸の大半を焼き尽くすという未曽有の災害だった。

 経済政策が行き詰まる中、綱吉は軽輩だった荻原重秀を抜擢し、重秀の唱える「元禄改鋳」を断行する。市中の貨幣を回収し、金銀の含有量の少ない貨幣に改鋳して貨幣流通量を増やすという施策だ。これによって、「元禄バブル」と呼ばれる好景気が出現し、「元禄文化」が花開いていく。

 景気がよくなれば、世の評価に恐いものはない。だから何をしてもいいと考えたかどうかは定かでないが、綱吉は独善的な政治につき進んでいく。「生類憐みの令」に代表される悪政を強いるとともに、幕府の政治体制も老中・大老の仕組みを無視し、側用人という「お友達」を重視した。

 「元禄バブル」は、実は年数%の緩やかなインフレだったとの説もある。しかし、庶民は好景気の恩恵を受けることができず、諸色値上げのしわ寄せだけを被った。おまけに、お友達政治がもたらす数々の悪法が生活を圧迫する。不満を内に秘めた庶民は、公然と幕府に反旗を翻した赤穂浪士を「義士」とたたえ、拍手を送った。

 歴史学者の間では、綱吉の評価は意外と高い。元禄改鋳は、当時とすれば画期的な貨幣政策だったといえなくもない。生類憐みの令も、近年見直しの議論がある。ただ綱吉は、庶民の機微を理解する心を持てなかった。これが後世の評価を決定的におとしめる。水戸黄門との対比が強調される理由もここにある。漫遊譚自体がフィクションである黄門様は、庶民が生み出した「おらが名君」の象徴に他ならない。

 ゆめゆめ誤解なきように。これは今から300年以上も昔、元禄時代のお話しである。

三の酉  《 観ずる東京23区 その35 》

 《 観ずる東京23区 その35 》


           三の酉




                       東京23区研究所 所長 池田利道



2あまり6

 今年の「お酉さま」は、一の酉が11月3日、二の酉が15日、三の酉が27日。三の酉まであった。

 「三の酉のある年は火事が多い」。よく知られた言い伝えだが、東京消防庁は、「三の酉のときに火事が増えたという記録はない」と、はっきり否定している。

 酉の市は、霜月(11月)の酉の日に開かれる。1か月30日に十二支を当てはめて行くのだから、30を12で割って「2あまり6」。つまり、三の酉がある確率は6割る12で2年に1回となる。実際、過去に三の酉まであった年は、2011年、2008年、2006年、2004年、2002年、2001年。ほぼ2年おきだ。東京消防庁の見解を待つまでもなく、火事が多い年と少ない年が繰り返される訳がない。

 統計データが示しているのは、冬に火事が多いという事実である。東京消防庁管内の1日あたり火災発生件数の過去3年間の平均値は、1月が最も多く18.1件。次いで2月(16.8件)、12月(16.7件)の順。一番火事が少ないのは6月(11.5件)で、1月とは1.5倍以上の差がある。

 三の酉は、必ず11月25日以降となる。旧暦だった時代では現在の12月中~下旬。まさに火災発生最悪シーズンに差しかかる時期だ。暖房を生火に頼らざるを得なかったかつては、今以上に冬は火の用心に心掛けねばならなかった。「三の酉の頃から火事が多くなる」。おそらくここら辺りから、三の酉と火事にまつわる伝説が生まれたのだろう。


おかめの右頬

 酉の市は、新宿の花園神社や府中の大國魂神社など、今では東京の各地で催される。だが、規模や賑わいの大きさは、台東区千束の鷲(おおとり)神社の酉の市をおいて他にない。

 地下鉄の三ノ輪駅から国際通りに沿って、露店がズラリと並ぶ。だが、酉の市の呼び物といえば、何といっても境内にひしめく熊手市だろう。鷲の爪に見立てた縁起物で、「福をかきこむ」になぞらえて「かっこめ」とも呼ばれる。値段は、「まけた(負けた)、買った(勝った)」の駆け引き次第。商いが成立すると、威勢のいい手締めが響きわたる。

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  「お酉さま」名物の熊手
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 鷲神社の酉の市は「おかめ」も名物。江戸時代から続く「なでおかめ」は、撫でる場所でご利益が異なる。鼻は金運、向って左の頬は無病息災、右の頬は縁結び…。神社によると、最近右頬の黒ずみがとみに進んでいるとか。婚活世代の若者の参拝が増えているのなら、江戸の粋が凝縮した酉の市にとって、明るいニュースである。

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  なでおかめ
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吉原名残り散策

 鷲神社と吉原は背中合わせの位置にある。神社を裏から出て路地を抜けると、もうそこは吉原のメインストリート仲の町。通り沿いには引き手茶屋が並び、その奥に遊女屋が軒を連ねた。

 吉原のシンボル大門の位置は、今の吉原交番の辺りだったと伝えられている。交番の角を左に曲がると道は下り坂となり、一段高い吉原側の敷地との間に古びた石垣が残る。「お歯黒どぶ」の跡だ。ドブといっても、幅が5間(約9m)もあったというから立派な堀。吉原は、堀に囲まれた城郭構造だった。もちろんその目的は、敵が攻めてこないようにではなく、遊女が逃げないように。遊女は妓楼の財産であると同時に、亡くなると寺に投げ捨てられた消耗品でもあった。「投げ込み寺」と伝えられる三ノ輪の浄閑寺の墓所には「新吉原総霊塔」が残る。

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  お歯黒どぶ跡の石垣
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 交番から先、土手通りまでの間は道が「くの字」に曲がりくねっている。「五十間道」の名残りで、道が曲がっているのは外から中が見通せないようにしたため。これも城郭構造の特徴を伝える。

 土手通りとの角には、見返り柳がひょろりと立つ。「新吉原衣紋坂見返り柳」の碑が、かろうじてこれがあの有名な柳の木かと思わせるばかりだ。ちなみに、「衣紋坂」の名は、吉原に向かう遊客がここで身だしなみを整えたことに由来する。

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  見返り柳
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 土手通りは、「土手八町」と呼ばれた山谷堀の土手道とほぼ同じ場所。お大尽は猪牙船に乗って山谷堀を遡り、吉原に乗りつけたという。もっとも、山谷堀は狭く、船が通れなかったとの説もある。どちらが正しいか、今は確かめようもない。


おかめ異聞

 樋口一葉の『たけくらべ』。クライマックスは三の酉の日。髪を嶋田に結い、京人形のように着飾った大黒屋の美登利が、「ゑゝ厭や厭や、大人に成るのは厭な事」と泣き伏す場面だ。美登利の憂鬱と対をなすように、一葉は三の酉の吉原の賑わいを活き活きと描きあげる。

 酉の市の日、吉原は普段閉めきっているすべての門を開け放ち、遊女は昼見世を張って客を迎えた。それは、鷲神社酉の市のもうひとつの名物、生きたおかめ。江戸川柳に曰く、「お多福に 熊手の客が ひっかかり」。

 江戸の女房は我慢強かったのか、我慢強さを強いられていたのか。酉の市のときくらいは、亭主の悪所徘徊を大目に見た。しかし、それも年に2度が限界。3回目になると角が生える。

 一方、バカで助平な男どもは、三の酉の年は3回吉原詣でができるとばかり、朝から鼻の下を伸ばしてソワソワ。仕事も早めに切り上げ、夕飯をかっ込むと、「おい、お酉さまに行ってくらあ」。

 女房、亭主の背中にピシャリと一言。「あんた。今日は早く帰ってきておくれ。三の酉の年は火事が多いんだから」。

 かくして伝説は、庶民の中に根づいていった。

山の端いと近う  《 観ずる東京23区 その34 》

 《 観ずる東京23区 その34 》


           山の端いと近う




                       東京23区研究所 所長 池田利道




計算され尽くしたイチョウ並木

 「秋は夕暮れ。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに」。今日の今日まで、「秋になると空気が澄んで、山の端が近く見えるようになる」という意味だと思い込んでいた。

 改めて調べ直してみると、これは異説らしい。一般に正しい訳とされるのは、「夕方になって、夕日が山の端に近づく」様子を表わしているとのこと。何とも即物的で味気がない。

 『枕草子』は知の文学、『源氏物語』は情の文学というのも納得しかねる。それは、随筆と小説の違いだろう。『源氏物語』を感情の文学と呼ぶなら、『枕草子』は感性の文学。とするなら、近づくのは夕日という物体ではなく、自分の気持ちと捉える方が、はるかに趣が深い。

 秋晴れに誘われて、向った先は神宮外苑のイチョウ並木。まっすぐに延びる道路に沿って、黄金に色づき始めたイチョウの大木が整然と並ぶ。東京の秋を代表する並木路である。

 並木道の真正面には、丸いドーム屋根の聖徳記念絵画館。明治天皇の業績を描いた数々の絵画が収められている。

 イチョウ並木は全長約300m。青山通りとの交差点から絵画館までは800m。空気が澄んで「いと近う」見えるはずなのに、もっと遠くにあるように感じられる。実はこれ、演出された目の錯覚である。イチョウの木は、青山通りから奥に進むに従って樹高が低くなる。その結果遠近法が強調され、実際よりも遠くにあるように見えるのだ。

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 神宮外苑イチョウ並木と絵画館
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東京のビスタ景

 道路の奥にシンボリックな建造物を配置する都市計画手法を「ビスタ景(ビスタ景観)」と呼ぶ。欧州の都市ではお馴染だが、道路は自動車交通を円滑に処理するものというアメリカ仕込みの合理主義の考えが強いわが国では、ビスタ景が重視されることがなかった。景観がまちづくりのテーマとなるのは、ごく最近のことである。

 神宮外苑のイチョウ並木と絵画館は、そんなわが国の貴重なビスタ景だ。もっとも神宮外苑も、当初はイチョウ並木と絵画館の間は何もない大きな広場で、ビスタがより一層強調されていた。太平洋戦争後、神宮外苑を接収した米軍は、まさにアメリカ的合理主義の発想で絵画館前に球技場を設けた。今、この旧米軍球技場は軟式野球場に代わり、草野球のメッカとなっている。野球愛好家の方々には申し訳ないが、都市景観の視点に立つと何とも残念というしかない。

 他のビスタ景の例を東京で探すなら、国会議事堂と迎賓館が思い浮かぶ。とはいっても、休日には歩行者天国となる外苑のイチョウ並木とは異なり、どちらも車道優先で、歩行者はビスタ線の隅っこに追いやられてしまう。

 神宮外苑と並び、歩行者がビスタを存分に楽しむことができるもうひとつの場所は、真ん中にゆったりとした歩行者空間を配した行幸通りから見た東京駅の眺めだろう。ただし、最長でも距離は500mくらいしかなく、かつ東京駅があまりにも巨大であるため、中途半端は否めない。

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 行幸通りから見た東京駅
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現代の「城あて」

 実はわが国にも、ビスタ景の考えは古くから存在していた。街路の先にシンボリックな山を配置する「山あて」の手法である。防衛上、行き止まりや曲がり角の多い鍵の手街路を駆使した城下町に迷い込んだ時、小路の先にふと城が見通せ、今どこにいるかが分かることがある。これを「城あて」という。「城あて」も「山あて」から派生した景観形成の手法である。

 城もなくなり、山も見通せなくなった東京でも、思いがけない眺めに出合うことがある。ビスタの先にあるのは東京タワー。東京の都心には、「東京タワーあて」を体感できる場所が少なくない。
 例えば六本木。六本木の交差点からはビルしか見えないが、外苑東通りを進むと右から徐々に東京タワーが姿を現し始め、やがて真正面に東京タワーと向き合う。

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 外苑東通りと東京タワー
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 東京タワーよりはるかに背が高い東京スカイツリーは、のっぺりとした下町に建つせいか、姿が見えても東京タワーほどの感動を呼ばない。それでも、いやだからこそ、より絶景を求めるスカイツリーの眺望スポット探しは、花盛りの感がある。

 なかでも錦糸町駅前から北に延びる道は、その名もズバリ「タワービュー通り」。足もとまで見通せるスカイツリーの姿は迫力満点。にもかかわらず、何故か心に迫ってくるものがない。物理的には、電線がどうしようもなく邪魔だ。しかし、もっと奥深い何かが欠けているように思えてならない。

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 タワービュー通り
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「おもてなし」が滲み出す景色

 復原された東京駅の景観。裏に回れば、ここにもお寒い現実がある。東京23区で駅前への放置自転車・バイクが一番多いのは赤羽駅。ワースト2位が東京駅である。

 駅前に自転車を放置する人にも、それぞれに言い分があるのだろう。しかしそれは、自分勝手な言い訳でしかなく、単に常識を欠いているだけだ。常識は、英語では“common sense”だから、都市生活者としてのセンスに欠けると言い換えてもいい。

 都市景観は、行政が整備するものではない。他者を気遣う小さなホスピタリティが紡ぎ合わさって、はじめて心を打つ景観が生み出される。そんなホスピタリティの心もまた、都市に住む上で欠かせないコモンセンスである。首都の玄関口に自転車が放置されている国が、「おもてなしの国」だなどと自称するのは、はっきりいって恥ずかしい。

 タワービュー通りでは、電線の地中化工事が始まり出している。電線が見えなくなったとき、代わってどんな心が滲み出してくるのだろうか。楽しみにして待つことにしよう。

芝居町の秋 《 観ずる東京23区 その33 》

 《 観ずる東京23区 その33 》


           芝居町の秋




                       東京23区研究所 所長 池田利道



江戸随一の繁華街

 城下町では、同業者を一か所に集めて住まわせた。大工町、呉服町、桶屋町、肴町、塩屋町…。全国でお馴染の地名は、こうして生まれる。東京23区にも、神田に鍛冶町、紺屋町、日本橋に馬喰(博労)町、牛込に箪笥町などが残る。日本橋人形町も、人形を製造・修理する人形師や人形遣いが多く住んだことに由来する。

 人形町通りと甘酒横丁に居並ぶ老舗をあげれば切りがない。江戸時代創業の玉ひで(親子丼)、玉英堂(京菓子)、初音(甘味)、京扇堂(扇子)、うぶけや(刃もの)、岩井つづら店。明治・大正生まれなら、黄金芋の壽堂、豆腐の双葉、京粕漬けの魚久、たい焼きの柳屋、ぜいたく煎餅の重盛永信堂、三味線のばち英などなど。昭和ヒトケタも、ここではまだ若造だ。老舗に混じって、ファストフードやチェーン店のオンパレードであることは、ここがオフィス街であることを物語っている。そうかと思うと、横丁や裏路地には八百屋が残る。人形町のバイタリティは半端ではない。

 江戸時代の人形町は、今よりもっと繁華なまちだった。町奉行公認の歌舞伎小屋である江戸三座のうち中村座と市村座があり、人形浄瑠璃小屋も多数集まっていた。操り人形芝居の結城座や各種の見世物小屋も軒を連ねていたらしい。当時の芝居見物は芝居茶屋とセットになっていたから、賑わいは現代人の想像をはるかに超えていたことだろう。

 明暦の大火後に裏浅草に移転するまで、吉原もこの地にあった。場所は人形町通りの北東あたり。人形町通りと並行して走る大門通りが、かろうじてその名残りをとどめている。


幸せ色が似合うまち

 人形町の秋は、てんてん祭から始まる。時は体育の日。ハッピーマンデー制度が適用されるまで、体育の日は10月10日。10/10だから「てんてん」。それだけではない。人形町といえば水天宮。水天宮といえば安産の神様。「とつき(十月)とおか(十日)」にちなんで「てんてん」である。

 水天宮の門前にある人形町は、大きなお腹をいたわるカップルや、お宮参りの着飾った家族連れの姿が目立つ。子宝を授かった人たちは、どの顔も幸せ一杯だ。

 ところが、今年はそんな姿が少ない。社殿建て替えのために、今年の3月から水天宮は明治座近くの仮宮に移っていた。伊勢神宮だけでなく、水天宮も遷宮していたとは。新社殿の完成は、2016年の予定とのことである。

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  水天宮仮宮
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人形とべったら漬け

 てんてん祭が終わると、次は人形市。人形町通りの両側にズラリとテントが並ぶ。その数は50を優に超え、人形町が文字通り人形で埋め尽くされる。豪華な雛人形の隣には、ちょっと不気味なアンティークドール。可愛らしいぬいぐるみも、キューピーさんもいる。

 今年で8回目を迎えた人形市は、10月17日~19日の3日間にわたって開かれた。最終日の19日は土曜と重なったこともありとくに人手が多い。

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  人形市
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 人形町交差点を過ぎるとまちは閑散とした週末のオフィス街へと様相を変える。ところが、堀留町の交差点を越えて椙森神社まで来ると、再び喧騒がよみがえった。毎年10月の19、20日といえば「べったら市」だ。小伝馬町の寶田恵比寿神社から椙森神社の間に、およそ500店の屋台がひしめく。たかが大根の漬物というなかれ。たっぷりの麹とアメに漬け込んだ、東京の伝統ある食材である。

 週替わりで続くイベントの最後を締めくくるのは、10月末のハッピーハロウィン。ハロウィンが終わると、人形町は冬支度を始める。

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  ベったら市
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人形師の伝統

 全国の人形製造業の事業所数は640。出荷額は290億円。出荷額ベースでみると、このうちの4割にあたる117億円が人形のまち岩槻を擁する埼玉県に集中している。2位はやはり雛人形を地場産業とする静岡県(33億円)で、東京都(27億円)が3位。埼玉県に比べると4分の1以下に過ぎないとはいえ、京人形の京都府(13億円)や博多人形の福岡県(12億円)を上回る。東京は、全国でも有数の人形生産地である。

 ただし、上位に並ぶ各県と東京は少し意味が異なる。東京最大の人形製造業の集積地は葛飾区。ここは、セルロイドに始まり、ソフトビニールやプラスチックへと進化した大量生産人形の製造拠点だ。その代表がリカちゃん人形。タカラトミーは葛飾区にある。

 東京から、ましてや人形町から、人形師の伝統は消えてしまったのだろうか。ため息をつきながら横丁に入ると、ジュサブロー館の看板がひっそりと佇む。現代の人形師、辻村寿三郎氏のアトリエ兼人形教室である。人形のまちの歴史は、脈々と受け継がれていた。

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  ジュサブロー館
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 人形町の魅力を語るなら、古きよきものが現代にアレンジされて息づいていること。懐かしさと新しさが同居するこのまちには、伝統的なものも現代的なものも何でも飲み込んでしまう奥深さがある。そしてそれは、東京の本質的な魅力のひとつの象徴でもある。

 地方都市活性化の取り組みを「ミニ東京」化を嘆くことから出発するのは間違っていない。だからといって、歴史だ、伝統だ、文化だと、映画のセットのような中で押しつけられるのも鼻につく。「成功事例に学ぶ」というのなら、一大成功事例である東京の魅力の本質にもっと真摯に向き合うべきでなはいだろうか。規模の違いを考えると、はっきりいって難問である。だが、地方の未来を描くには、どうしても避けて通れない課題のように思われる。

河岸とやっちゃ場 《 観ずる東京23区 その32 》

 《 観ずる東京23区 その32 》


           河岸とやっちゃ場




                       東京23区研究所 所長 池田利道




メガトン級の食材供給基地

 10月になっても真夏日という異常な暑さも落ち着いて、ようやく秋がやってきた。読書の秋。芸術の秋。スポーツの秋。行楽の秋。秋を彩る言葉は数々あるが、やはり食欲の秋に優るものはない。

 東京の胃袋はそこはかとなく大きい。それを縁の下で支える力持ちが中央卸売市場だ。東京23区には10か所の中央卸売市場がある。その合計取扱量は、1日あたり水産物が約2,000t、青果物が約7,500t、食肉が330t、花卉が570万本。足しあげるとおよそ1万t。金額にして42億円。年間3メガトン近い食材が、巷に供給されていることになる。


川岸に現われた竜宮城

 10の中央卸売市場の頂点に君臨するのが築地市場。1日あたりの取扱金額は18億円を超える。この数値はあくまでも場内に限ってのもの。築地には、物販・飲食等あわせて約400店の場外市場が控える。東京一どころか、日本一、いや世界一の市場である。

 築地市場は、江戸の昔から天下の台所を賄ってきた日本橋魚市場(魚河岸)が移転してきたものだ。日本橋の北詰には、「日本橋魚市場発祥の地」の碑が建つ。椅子に座った女性の像は乙姫様。〈日本橋 竜宮城の 港なり〉の川柳に由来する。江戸時代には鮮魚を満載した船が日本橋川の岸に集まり、桟橋に横付けした平田舟の上で取引が行われという。まさに川と一体化したマーケットであった。

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  日本橋魚河岸跡
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 日本橋はわが国有数の老舗の集積地でもある。1688(元禄元)年創業の練製品の神茂をはじめ、海苔の山本山(1690年創業)、鰹節のにんべん(1699年創業)、乾物の八木長(1737年創業)、包丁の木屋(1792年創業)…。海産物に関連する店の多さが、魚河岸の歴史を伝えている。

 築地場外市場は、魚・塩干物店と寿司屋が130店を超えるのに対し、青果物店は20数店。このため、築地というと水産物のイメージが強い。だが、市場取扱量の4割は青果物が占める。実は築地市場は、関東大震災でともに壊滅的な被害を受けた日本橋魚市場と京橋青物市場が合体してできた。

 首都高会社線は、旧京橋川の上を走る。この京橋川の水運を利用して、江戸時代から京橋の地に青物市場が開かれた。俗にいう「京橋大根河岸」である。中央通りとの交差部近くにある「京橋大根河岸青物市場蹟」の碑が、忘れられがちな築地市場のもうひとつのルーツを語り継いでいる。

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  京橋大根河岸跡の碑
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産直市場の原点

 日本橋の魚河岸には、鯛や鰹など江戸湾外からの近海物も集まった。これに対して、もっぱら江戸湾で獲れた小魚を扱ったのが、雑魚場と呼ばれる浜商いだった。今風にいうなら漁港直結の産直市場。その代表が芝の雑魚場だ。落語「芝濱」の舞台である。

 田町駅のすぐそば、山手線内側の線路に接した本芝公園内に雑魚場跡の標柱が建つ。ということは、JRの線路が海岸線。1872(明治5)年に開通した新橋~横浜間の鉄道は、芝の辺りは海上に築かれた堤防の上を走っていたという。ウォーターフロントのタワーマンションも、バブルの時代に一世を風靡したジュリアナ東京も、かつては海の中だった。

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  雑魚場跡の標柱
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 「芝濱」を高座にあげる噺家は多い。筆者のお勧めは先代(5代目)の三遊亭圓楽。珠玉とされる芝濱の下げを、先代圓楽はギリギリまで贅肉を落として語った。「よそう、また夢んなる」。簡にして、いや簡なればこそ心に残る。


投師のロジスティクス

 千住大橋駅を降りて日光街道を渡ると足立市場の正門前に出る。足立市場は、取扱量も取扱金額も、23区内の中央卸売市場の中で一番小さい。しかし、歴史は飛び切り古い。市場正門の横に「此処は元やっちゃ場南詰」の看板。墨堤通りとの交差点までの間、旧日光街道に沿って千住青物市場が広がっていた。その歴史は、1570年代まで遡るというから、家康よりも先輩だ。ちなみに「やっちゃ場」とは、セリの声が「やっちゃい、やっちゃい」と聞こえたことから生まれた。

 今、やっちゃ場跡は住宅が目立つが、建物の壁や軒下に店名と業種を記した木の看板が掲げられ、当時を偲ぶことができる。元青物問屋や果物専門問屋はいうに及ばず、川魚問屋、めしや、酒屋、たび屋、両替商などなど。千住葱専門問屋の看板は、いかにも千住らしい。1軒だけ「元」がついていない蒟蒻屋には、5代目と記されている。

 なかに「投師」と書かれた看板がある。投師は、セリで仕入れた商品を大八車に積み込み、他の市場に駆けつけて売りさばく、千住やっちゃ場特有の商売であった。何を仕入れると儲かるかは情報が命。パソコンンも携帯電話もない時代に戦略ロジスティクスを実践していた投師が、昭和の初めには150人ほどもいたらしい。

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  千住やっちゃ場投師の看板
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神田、秋葉原は何のまち?

 江戸のまちには、ほかにも2か所の青物市場があった。ひとつは、「辻のやっちゃ場」と呼ばれた駒込土物店(つちものだな)。巣鴨のお地蔵さまのそばにある豊島市場のルーツである。もうひとつが神田の青物市場。勇み肌がいなせな神田っ子とは、青物市場で働くお兄さんを指したのが始まりとの説もある。

 多町大通りの靖国通りとの交差点手前に「神田青果市場發祥之地」の碑が残る。神田青果市場も関東大震災によって大きな被害に見舞われ、1928(昭和3)年に秋葉原に移転する。神田といえば古本のまち、秋葉原は電気のまちが通り相場だが、神田の古本街は明治生まれ。秋葉原の電気街はもっと新しい戦後世代。神田も秋葉原も、元は野菜のまちだった。

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  神田青果市場発祥の地
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 秋葉原の青果市場は1989年に大田区に再移転し、跡地は秋葉原クロスフィールドに姿を変える。UDXビル前の植え込みに、「神田青果市場跡地」の石盤。それ以外、かつてここに市場があった証は何もない。

 都心にあって広大な面積を持つ市場の移転跡地は、洋の東西を問わず再開発の格好のタネ地とされてきた。移転が迫る築地市場の跡にはどんなまちが生まれるのだろうか。金太郎飴では知恵がない。土地にしみ込んだ歴史を踏まえつつ、雄大な未来を描き出して欲しい。都市計画の腕が問われている。