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ふくろうが棲むまち 《 観ずる東京23区 その31 》

 《 観ずる東京23区 その31 》


           ふくろうが棲むまち




                       東京23区研究所 所長 池田利道




ジョージ、ジュク、ブクロ

 イギリスでロイヤルベビー誕生のニュースに、吉祥寺の一部が盛り上がっているらしい。はっきりいって驚いた。今どき、吉祥寺をジョージと呼ぶ人がいるんだ。

 漢字で2文字。読みが3音か4音の熟語を基本とする日本語は、ちょっと長いと何でもかんでも3音か4音に省略してしまう。地名もその例外ではない。サンチャ、シモキタ、アキバ、ニシフナ…。しかし、吉祥寺をジョージ、新宿をジュク、池袋をブクロと呼ぶのはちょっと意味が違う。40~50年前、団塊の世代が青春時代を迎えたころに花開いた「若者文化」の落とし子で、いわば一種の業界用語だった。もう少し前の世代に遡るなら、ラクチョウ(有楽町)、ブーヤ(渋谷)、ノガミ(上野)なども同類。当然、時代とともに消えていく。

 ただし、池袋を濁点のない「ふくろ」と呼ぶのは公式略称のようである。9月末に池袋西口公園をメイン会場として開かれた「ふくろ祭り」は今年で46回を迎えた。地下鉄東池袋駅前の豊島区立舞台芸術交流センターの愛称は「あうるすぽっと」。「あうる」とはowl。英語でふくろうを意味する。


池袋駅に潜むふくろうたち

 夜行性のふくろうは、なかなか姿を捉えにくい。だから、「ブッポウソウとコノハズク」の話も生まれた。そんなふくろうが、池袋駅とその周辺に数多く潜んでいる。

 池袋駅東口改札前にある「いけふくろうの像」は比較的分かり易い。いけふくろうの像から丸ノ内線の方に抜けるチェリーロード。ほとんど誰も気づかないが、天井を見上げるとふくろうがいる。

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  池袋駅チェリーロードのふくろう
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 チェリーロードは、中央通路を超えるとアザリアロードと名前を変える。地下鉄有楽町線や西武線の地下改札口に向かう通路だ。その壁面に、3枚のふくろうのレリーフ。中央あたりの柱の上にもふくろうが2匹。地下の通路を足早に通り過ぎる人たちに、ときにはゆっくり歩いてみたらと語りかけている。

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  池袋駅アゼリアロードふくろうのレリーフ
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 東口を地上に出て、駅前広場の斜め前にある東口交番はふくろうの形を摸す。西口前の池袋西口公園にもふくろうのオブジェがある。メトロポリタンホテルホテル前の元池袋史跡公園には、ふくろうが群舞するモニュメント。壁面には、豊島区ゆかりの芸術家たちによる、ふくろうの絵が並ぶ。


ふくろうか、みみずくか

 池袋の地名は、袋のような窪地に多くの池があったことに由来する。元池袋史跡公園は、そのうち最も大きかった丸池(袋池)の跡にあり、「池袋地名ゆかりの池」の碑が建つ。池の周りには林が広がり、ふくろうも棲んでいたことだろう。

 元池袋史跡公園のふくろうには、耳がついたものがいる。耳がないのがふくろうで、耳があるのはみみずくだと思っていたが、生物学的には必ずしもそうとばかりはいえないようだ。ちなみに、耳のように見えるのは、羽角と呼ばれる飾り羽である。

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  元池袋史跡公園のふくろう
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 池袋から地下鉄副都心線でひと駅の雑司が谷。鬼子母神境内にはみみずくのベンチが佇む。隣接する公園にもみみずくの像。台座には「雑司が谷みみずく公園」と記されている。こちらははっきり、ふくろうではなくみみずく。代表的な江戸玩具の「すすきみみずく」は、雑司が谷を発祥の地とする。貧しくて母親の薬が買えない娘の夢の中に鬼子母神が現れ、「すすきの穂でみみずくを作り、それを売って薬代にしなさい」と告げたという逸話が残る。

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  鬼子母神のみみずくベンチ
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  すすきみみずく
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西武百貨店は元京急、東武百貨店は元東急??

 池袋は新宿、渋谷と並び東京の3大副都心の一画を占める。ところが区の名前は豊島区。1932(昭和7)年に豊島区が生まれる前は西巣鴨町。かつての池袋は、鄙びた小農村に過ぎなかった。

 池袋が大きく発展するきっかけとなったのは鉄道駅ができたこと。だが、ここには「瓢箪から駒」のような落ちがつく。山の手線は品川~赤羽間が最初にでき、他の鉄道と連結して伸びていく。最後に残った池袋~田端間を結ぶにあたり、当初は目白~田端が候補とされた。しかし、地形等の理由からやむなく池袋が選ばれる。1903(明治36)年のことで、このときようやく池袋駅ができた。

 そして今、池袋を象徴するのは巨大な2つの百貨店。西口の東武百貨店の売場面積(大規模小売店舗立地法に基づく届出店舗面積)は、メトロポリタンプラザを併せて11万㎡。東口の西武百貨店は、パルコ、池袋ショッピングセンターと併せて9万㎡。東京23区のビッグストアの1位と2位が池袋にある。

 西武百貨店は白木屋と京浜電鉄(現在の京急)が共同で設立した京浜百貨店の池袋店(名称は菊屋デパート)を西武が買収したもの。いうなれば元京急。東武百貨店も、隣接する東横百貨店池袋店を買収して巨大店舗になったから、半分は元東急。紆余曲折の連続の末に、現在の池袋の姿がある。

 新宿や渋谷と比べ池袋はダサイというのは根も葉もない偏見だとしても、駅と一体化した2つの百貨店があまりに巨大すぎるため、まちのイメージが希薄であることは否定できない。ふくろうは、そんな池袋のまちを繋ぎ合わせるアイデンティティの役割を果たそうとしている。

 ふくろうの像は、地元の「梟の樹を創る会」が、寄付金に頼りながらコツコツと設置し続けている。会の名前は「梟の像を創る会」ではなく「梟の樹を創る会」。ふくろうを訪ねてまちを巡り、池袋を再発見して欲しいとの思いが、「像」ではなく「樹」という言葉にこもる。

 こんな取り組みが草の根から生まれる池袋。ダサイどころか何ともイカシタまちではないか。

大久保今昔 《 観ずる東京23区 その30 》

 《 観ずる東京23区 その30 》


           大久保今昔




                       東京23区研究所 所長 池田利道




千人町、百人町

 家康は考えた。江戸を滅ぼす敵は甲州街道からやってくる。所詮天才が考えたこと。理由はよく分からない。はっきりしているのは、武蔵野台地に入ると天然の要害もなく、大きな城もない甲州街道に、2重の防衛線を敷いたことだ。

 第1陣は八王子。甲州街道と陣馬街道の追分の地(街道が合流・分岐する場所)に、千人の歩兵部隊を置く。世にいう八王子千人同心である。今も八王子には千人町の名が残る。

 第2陣は江戸の手前。こちらは百人ずつの4部隊に分けた。人数が少ない分、伊賀、甲賀、根来などの特殊部隊。といっても忍者ではない。当時最強の兵器だった鉄炮部隊だ。このうち、服部半蔵旗下の伊賀組は新宿に配置される。場所は、今の伊勢丹あたり。当初は野戦配備だったようだが、やがて部隊は大久保の地に定住するようになる。百人町の起りである。

 百人町に定住した「大久保組」は伊賀組ではなく、新編成の二十五騎組だったとの説もある。


百発百中、みなあたる

 大久保鉄炮百人同心の組屋敷は江戸を守る砦。大久保通りの両側に与力・同心屋敷が軒を連ね、東西には番兵が常駐する木戸が設けられた。軍事基地としての特徴は、町割にも色濃く表れていた。城下町の町屋は、間口2~3間、奥ゆき約20間という「うなぎの寝床」の形を採ることが多い。百人町では、間口3~4間、奥ゆき30~50間の「超うなぎの寝床」。今でも地図をみれば一目瞭然だろう。攻めにくく、守りやすくかつ逃げやすい。そんな軍事上の目的が、特殊な敷地を生み出したのだ。

 鉄炮同心たちの信仰を集めたのが、新大久保駅そばの皆中稲荷。中は「あたる」と読む。つまり「みなあたる」。鉄炮同心ならではの氏神様である。

 9月22日、その皆中稲荷から、鎧兜に火縄銃の出で立ちの鉄炮同心たちが、百人町のまちに繰り出した。2年毎に行われる「鉄炮組百人隊出陣の儀」だ。圧巻は西小山公園野球場での試射。一斉射撃あり。連続射撃あり。次々と繰り出される轟音。舞い上がる煙。迫力満点とは、まさにこれを指す。

 戊辰戦争で官軍が江戸に攻めのぼって来たとき、火縄銃はどうしようもなく旧式な武器になっていた。だが、それも270年の泰平が続いたからこそ。そう考えると、大久保鉄炮百人組は、立派に務め果たしたことになる。

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  鉄炮組百人隊試射
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文士村から楽器のまちへ

 明治に入ると大久保は、他の多くの武家地と同様、屋敷町へと姿を変える。といっても、大久保とはおそらく元「大窪」で、一等地になる条件を欠いていた。しかも鉄炮同心の身分は足軽。大名や旗本の抱屋敷が集まっていた今の歌舞伎町などと比べると、ワンランク下は否めなかった。

 いうなれば、緑に囲まれた長閑な郊外の中級住宅地。こうした土地柄は、文筆家や芸術家が好む。実際、大久保は「大久保文士村」と呼ばれるほど、多くの文化人に愛される。

 大久保通りから細い路地を入っていくと、突然ギリシャ風の公園が現れる。名は小泉八雲記念公園。ギリシャ風であるのは、八雲がギリシャ生まれだからだ。近くの大久保小学校の横には、「小泉八雲終焉の地」の碑。大久保文士村の歴史を伝える貴重なモニュメントである。

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  小泉八雲記念公園
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 文士村には音楽家も数多く住んだ。そのDNAを引き継いで、太平洋戦争後の大久保は楽器のまちとなる。東京交響楽団の本部も、クロサワ楽器の日本総本店も大久保にある。中古楽器の販売や楽器の修理を扱う店が多いことは、大久保と楽器の繋がりの原点を今に伝えている。

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  大久保の中古楽器店
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演出されたコリアンタウン

 戦後の大久保は、一転負の色彩を強める。軍事基地に由来する特殊な地割の土地に、十分な都市計画なきままに住宅地化が進んだことがその根底に横たわる。表通りに抜ける細い路地を通すだけで土地は細分化され、路地裏では秩序なき転用が繰り返されていった。

 最初は簡易宿泊所(ドヤ)の発生。やがてドヤはラブホテルへと変わる。路地裏に建つ安価なアパートとあいまって、バブル期には街娼がたむろする不法滞留外国人の巣と称されるまでに至る。

 東京に住む外国人の割合は、23区の平均が4%。新宿区は10.5%。これに対して百人町1・2丁目から大久保1・2丁目にかけてのエリアは何と36%。これら4町丁合計の外国人比率は、20年前の1993年は15%。高いとはいえ現在の半分にも満たなかった。にもかかわらず、20年前の大久保は、用もないのに路地に入るのを尻込みしたくなるまちだった。今の大久保は、カラッと明るいコリアンタウン。表通りだけでなく、イケメン通りをはじめとする裏路地にも、屈託のない笑顔が溢れる。

 大久保のコリアンタウンを支える主役は、1990年代以降に海を渡ってきたニューカマーのコリアンたち。それ以前から、大久保には韓国・朝鮮系の人々が多く暮らしていた。新宿に近い割には住宅が安く、何より同胞が多い大久保に、ニューカマーたちも集まってくる。彼らのニーズに応える商店も増えていく。そしてあるとき、一気のブレイクが訪れた。韓流ブームがその後押しをしたことは想像に難くない。

 大久保のコリアンタウンは、一種のテーマパークのようなものだ。演出された空間と言い換えてもいい。わが国のもうひとつの代表的なコリアンタウンである大阪の鶴橋のような、地に足を踏ん張った重さはなく、どこまでも軽く明るい。

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  大久保コリアンタウン
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 土着パワーの力強さと、流動パワーの勢い。大阪と東京の東西都市比較文化論の究極のテーマである。日本人の生活様式は画一化し、今では比較のタネも少なくなってきた。それが、外国人街に受け継がれているのは何とも興味深い。学者ならいうだろうか。「蓋し、文化は辺境に宿る」と。

消えた駅、消えない駅 《 観ずる東京23区 その29 》

 《 観ずる東京23区 その29 》


           消えた駅、消えない駅




                       東京23区研究所 所長 池田利道




よみがえった鉄ちゃんの聖地

 7年前、惜しまれながら幕を下ろした万世橋の交通博物館。9月14日、その跡地に「mAAch ecute(マーチエキュート)神田万世橋」がオープンした。JR東日本の新業態、「エキナカ」ならぬ「マチナカ」商業施設である。

 最大の特徴は、旧万世橋駅の高架橋をそのままに受け継いだレンガアーチ。外向き店舗のエントランスも、神田川沿いのウッドデッキに面するショーウインドウも、インショップのディスプレイ空間も、全てがリズミカルなレンガアーチの連続で構成されている。駅のホームもよみがえった。万世橋駅開業時に造られた階段を上ると、ガラスに囲まれた展望デッキ。目の前を電車が走り抜ける。

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  マーチエキュート神田万世橋
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 1912(明治45)年に開業した万世橋駅は、中央線のターミナル駅として産声をあげる。駅前の須田町交差点は市電の一大結節点で、銀座と並び称される賑わいが溢れていたという。設計者は、東京駅と同じ辰野金吾。食堂やバー、会議室などを備えた壮麗な駅舎だった。

 しかし、1919(大正8)年に中央線が東京駅まで延伸され、ターミナルの役割は終わる。追い打ちをかけたのが関東大震災。建替えられた2代目駅舎は、初代とは異なる質素なものとなる。それ以上に、震災後の区画整理で須田町交差点の場所が移り、駅前は裏通りに変わってしまう。

 その後も利用者は減り続け、1943(昭和18)年にはやむなく営業休止に至る。こうして万世橋駅は、開業後わずか31年で姿を消した。


南新宿駅の謎

 廃駅と聞くと、過疎地をイメージしがちだが、東京23区内でも廃止になった駅は少なくない。

 まだ記憶に残るのが、京成本線の上野と日暮里の間にあった博物館動物園駅。営業休止は1997年、正式廃止は2004年。廃止の最大の理由は、ホームが短く4両編成の電車でさえはみ出していたからだとか。国会議事堂を思わせる地上出入口の建物だけが、当時の姿を伝えている。

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  旧博物館動物園駅地上出入口
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 東京で廃止になった駅には、ターミナルに隣接するものが多い。利用者が集中して存在するターミナル付近には、高密度に駅が配置されていたのだろう。京成本線の上野・日暮里間には、博物館動物園駅に加えて寛永寺坂駅が、日暮里・新三河島間には道灌山通駅があった。東急東横線渋谷・代官山間の並木橋駅、西武池袋線池袋・椎名町間の上り屋敷駅、東武伊勢崎線浅草・業平橋(現・とうきょうスカイツリー)間の隅田公園駅なども、かつて存在した駅である。

 ターミナル隣接駅の中で、今も健在を示すのが小田急線の南新宿駅。新宿駅からの営業距離は800m。大新宿駅の南端にあたる甲州街道からは600mしかない。乗降客数は1日平均約3,700人。輸送力が限られる新交通システムや路面電車を除いた在来鉄道線の中では、東京23区で一番少ない。

 南新宿駅には謎が多い。駅の乗車客数と降車客数は、通常ほぼ同数になる。ところが、南新宿駅は降車客が乗車客を約4割も上回る。もっともこの謎は、答が推測できる。帰りは新宿から乗る方が座れるからだ。

 もうひとつの謎は、定期利用客と切符利用客の割合。私鉄であれJRであれ、平均は概ね定期6に対し切符4。だが南新宿駅は、切符利用客が定期利用客より3倍も多い。駅至近の場所にあるJR病院の影響だろうか。


10本に1人の利用者

 東京23区で最も利用客数が少ないのは、ゆりかもめの市場前駅。1日平均の乗降客数は約40人。上り下り合わせて1日に440本(土・休日は約400本)の電車が発着するから、利用者はおよそ10本に1人に過ぎない。さすがに駅員はいないようだが、電気は煌々と灯り、エレベーターやエスカレーターが動き、空調もバッチリ効いている。考えるまでもなく、大赤字に違いない。

 この駅が成立している秘密は、その名前にある。市場とは、築地から移転してくる豊洲新市場のこと。当初計画では2012年に開場予定だった豊洲新市場は、現在のところ2015年度中のオープンが目標とされる。しかし、最大の課題である土壌汚染対策は予断を許さない。

 もっとも、周辺のインフラ整備は着実に進んでいる。都心方面と結ぶ環状2号線の豊洲大橋は、2008年には工事が完了し、供用されないまま5年になる。工事費も、金利負担も、長期放置の維持管理費も、全て税金と考えると、すんなり納得できかねる。

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  市場前駅
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ポストオリンピックに何を残す

 豊洲大橋の対岸は晴海。1996年に東京国際見本市会場が閉鎖されて以降、広大な空地が広がる。

 晴海は、幻に終わった1940(昭和15)年開催予定の万博会場だった。招致に失敗した2016年の東京オリンピックでは、オリンピックスタジアムの建設予定地となる。2020年オリンピックでは、競技場群の要に位置する選手村。国家的イベント計画に振り回され続けてきたこの地にとって、80年ぶりの悲願達成である。

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  豊洲大橋
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 1964年の東京オリンピックの選手村は、代々木公園に生まれ変わった。それだけではない。新幹線が開通し、首都高ができ、さらにはゴミ出しのルールが変わるに至るまで、50年前のオリンピックは都市としての東京に大きな変化をもたらした。大規模な投資を要する一大イベントは、それをいかに成功させるかより以上に、その後に何を残すかが問われる。歓迎ムード一色に染まる中で、「ポストオリンピック」の議論が欠けているように感じてならない。

 まだ7年ある。いや、もう7年しかない。

根岸あたり 《 観ずる東京23区 その28 》

 《 観ずる東京23区 その28 》


           根岸あたり




                       東京23区研究所 所長 池田利道




糸瓜(へちま)忌

 9月19日は子規忌。1902(明治35)年のこの日、正岡子規は短い生涯を終える。享年34歳。亡くなるまでの10年間を根岸に暮らした子規は、根岸のまちを愛して止まなかった。

 最初の間借り生活から、2年後には近くの庭つき二軒長屋のひとつに移る。わが国近代俳句・短歌の道筋は、「子規庵」と名づけられたこの小さな家から生み出されていく。子規庵の建物は、太平洋戦争末期の空襲で焼失するが、その後ほぼ当時のままに再建されている。

 重い結核に冒され、さらに脊椎カリエスを併発し、やがて座ることさえできなくなった子規が過ごした病間の庭先には、大きなへちまがぶら下がっていた。痰切りの効果があるとされるへちま水を、藁をもすがる思いで口に運んだのだろう。

 絶筆は、死の前日に詠んだへちま3句。子規忌は、別名「糸瓜忌」ともいわれる。
 〈をととひの へちまの水も 取らざりき〉。


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  子規庵
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鴬鳴く文人の里

 子規庵の最寄り駅は鴬谷。元禄時代に寛永寺門主となった輪王寺宮公弁法親王が、「江戸の鴬はなまっている」と、京都から鴬を取り寄せ放ったことに由来する。

 〈雀より 鶯多き 根岸かな〉。説明調がやや気になる。

 〈飯たかぬ 朝も鶯 鳴きにけり〉。個人的には、こちらの方が好みだ。

 江戸の外れに位置した根岸は商家の別宅が多く、お妾さんたちが密かに住むまちでもあった。

 〈妻よりは 妾の多し 門涼み〉。子規には、茶目っ気のある句も少なくない。

 根岸の名誉のためにつけ加えると、この地には風流を愛する文人墨客も多く住んだ。その伝統は明治になっても引き継がれ、「根岸党」あるいは「根岸派」と呼ばれる文化人のサロンが形成される。子規庵の向かい、画家であり書家でもあった中村不折の旧宅には、不折が創設した書道博物館が建つ。

 おっと忘れていた。書道博物館の裏手に、「昭和の爆笑王」初代林屋三平ゆかりの「ねぎし三平堂」。根岸を語って、三平師匠を欠かすことはできまい。うっかりしていて、「どうもすいません」。


根岸探訪

 子規庵は戦災で焼けてしまったが、金杉通りに沿った根岸3、4、5丁目は、戦争の大きな被害を受けずに済んだ。このため曲がりくねった路地や、古い木造の建物が残り、通り沿いには昭和の看板建築も多い。建築探偵団になって金杉通りを背面(うしろむき)地蔵が有名な薬王寺まで散策する。

 帰りは、裏路地巡りに挑戦。迷いながらも西蔵院の不動堂に辿りつく。境内の「御行(おぎょう)の松」は、子規も四季それぞれに句を詠んだ名木だったが、昭和の初めに枯死し、今は掘り起こした根が祀られている。植え直された2代目もほどなく枯れ、現在は3代目。樹齢350年、高さ13.6m、幹回り4m余と伝えられる初代とは比べることができないものの、やがて立派な大木に育っていくに違いない。

 〈薄緑 お行の松は 霞けり〉。この句は季節が春。秋なら、〈松一本 根岸の秋の 姿かな〉。


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  御行の松
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豆腐と朝顔

 鴬谷駅の方に戻れば、尾竹橋通りと尾久橋通りの交差点角に豆腐の名店「笹乃雪」。同店では「豆富」と記す。創業はおよそ320年前。公弁法親王のお供をして京から江戸に下り、江戸で初めて絹ごし豆腐を作った老舗中の老舗である。

 スーパーで1丁50円を切る豆腐が手に入る時代にあって、東京の商店街には豆腐屋がまだまだ健在だ。東京23区の人口10万人あたりの豆腐屋の数は10.6店を数え、全国平均(6.8店)の1.5倍を超える。豆腐は手づくりの味が際立つ食材。味でスーパーと伍していけるから、豆腐屋が残っているのだろう。その頂点に、笹乃雪のような名店がある。

 子規も笹乃雪の豆腐を愛したひとり。〈蕣に 朝商ひす 笹の雪〉。

 「蕣」は"あさがお"と読む。子規は朝顔を好み、朝顔を題材にした句を数多く残している。

 〈蕣や 君いかめしき 文學士〉。文学士とは、終生の友人夏目漱石。

 死の前年に俳画とともにしたためた朝顔4句は、寝たきりになった子規の想いが胸を打つ。

 〈朝顔や 絵の具にじんで 絵を成さず〉。


野球のレジェンド

 子規が野球の殿堂入りを果たしていることをご存知だろうか。熱烈な野球好きだった子規は、「野球」という熟語を最初に考え出す。ただしこれを"やきゅう"と読ませ、ベースボールの訳語にしたのは、後輩の中馬庚。子規は幼名の升(のぼる)にあてて、"のぼーる"と読ませて雅号のひとつとした。

 とはいえ、打者、走者、直球、四球、飛球など、子規が訳した言葉は今も使われている。上野公園には、その功績を讃えた「正岡子規記念球場」がある。

 〈夏風や ベースボールの 人遠し〉。ほとんど病床から起き上がれなくなったころの句。

 子規記念球場横には、〈春風や 毬を投げたき 草の原〉の句碑。20代前半のまだ元気に野球を楽しんでいたころの作である。


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  正岡子規記念球場
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ざっと拝んで

 鴬谷の駅前から言問通りを山の手線の内側に入った浄名院には、地蔵像ズラリと並ぶ。地蔵尊は右手に錫杖、左手に宝珠が決まりだが、なかに左手にへちまを持つお地蔵様。人呼んで「へちま地蔵」。毎年旧暦の8月15日に、咳封じの「へちま加持」が催される。

 8月15日の満月の日の取ったへちま水は、とりわけ痰切り、咳止めの効能が高いと言い伝えられてきた。ちなみに、子規が絶句を詠んだのは旧暦で8月17日。「をととひ」の謎がこれで解ける。


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  浄名院へちま地蔵
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 浄名院の少し先、今は下町風俗資料館になっている旧吉田屋酒店の角を右に曲がり、谷中銀座の方に抜ける途中にある功徳林寺は、江戸時代は福泉院というお寺だった。境内に祀られた笠森稲荷に、男たちが足しげく通ったという。門前にあった水茶屋の看板娘が超美人だったからだ。名はお仙。「向こう横丁のお稲荷さんへ 一銭あげて ざっと拝んでお仙の茶屋へ」のお仙である。

 福泉院は明治の初めに廃寺となるが、その跡に建てられた功徳林寺の境内に、今も笠森稲荷の祠が建つ。近くには、絵馬屋、べっ甲屋、線香屋など、覘いてみたくなる店が多い。でも、それはまたの機会に。陽も傾き始めた。今日のところは、ざっと拝んで豆腐を食べに戻るとしよう。


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  笠森稲荷
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目黒のさんま 《 観ずる東京23区 その27 》

 《 観ずる東京23区 その27 》


           目黒のさんま




                       東京23区研究所 所長 池田利道




元祖「さんま祭り」? 本家「さんま祭」?

 9月8日の日曜日。小雨がぱらつく悪天候をものともせず、目黒駅前がさんま祭りで賑わった。振舞われたサンマは7千匹。すっかりお馴染になった東京に秋を告げるイベントである。

 今年は猛暑のせいで海水温が高く、まだサンマが南下してきていない。14年前から無料でサンマを提供してきた宮古市も地元産を諦め、急きょ根室港からサンマを仕入れて送ったらしい。

 18回を数える「目黒のさんま祭り」を主催するのは、目黒駅前商店街の青年部。ただし、商店街も祭りの会場も、住所は品川区上大崎。目黒駅は品川区にある。「本家」ともいうべき目黒区の方では、1週間後の9月15日に「目黒のさんま祭」を開く。こちらも今年で18回目。違いは気仙沼のサンマを使うことと、「祭」に“り”の字の送り仮名がないことくらいか。

 仲が悪い訳でもあるまいし。どうせなら、同じ日に協力し合って盛大にやればと思うのだが、そうはいかないところもあるのだろう。

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  目黒のさんま祭り
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目黒寺町千体仏

 目黒と聞けば、サンマと並んでお不動様を思い出す。目黒不動の名で親しまれている泰叡山瀧泉寺は、9世紀初めに慈覚大師が創建したと伝えられる東京有数の古刹のひとつだ。本堂にのぼる石段の手前には独鈷の滝。2体の龍口から流れ落ちる水は、創建以来涸れたことがないという。まさに瀧泉寺である。独鈷の滝は霊験あらたかな水垢離の場とされ、西郷隆盛も島津斉彬の病気平癒を祈願した。今では、水掛け不動が代わって霊水を浴びてくださる。

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  目黒不動・独鈷の滝
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 目黒不動の周りにはお寺が多く、寺町の風情が漂う。参道商店街の中には、蛸薬師で有名な成就院。仁王門脇の小道を入ると五百羅漢寺。松雲禅師が独りで彫りあげた羅漢像に圧倒される。お隣の海福寺には、風格ある四脚門が佇む。

 山手通りを越え、目黒川を渡ると行人坂。坂の途中に大円寺が建つ。ことの辻褄は逆で、行人(修行僧)が多く住む大円寺の前にあるから行人坂と呼ばれたそうだ。

 大円寺の境内には、釈迦三尊像を中心に石の羅漢像が並ぶ。江戸三大大火に数えられる明和の大火は、大円寺が火元となる。500余体の石仏群は、この火事の犠牲者を供養するために造られた。
 五百羅漢寺の羅漢像はあくまでも写実的。大円寺の羅漢さんはみな穏やかなお顔。五百羅漢の中には、必ず自分に似た顔があるという。目黒には、あなたに似た仏様が2人おられるかも知れない。

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  大円寺石仏群
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江戸城の裏鬼門封じ

 実は目白も、お不動様に由来する。目白不動は、今は豊島区高田の金乗院に祀られているが、かつては椿山荘の近くにあった。つまり文京区の目白台。目黒、目白だけでなく、目赤不動(文京区本駒込)、目青不動(世田谷区太子堂、かつては港区六本木)、目黄不動(台東区三ノ輪、江戸川区平井など)もある。これらを合わせて「五色不動」と呼ぶ。

 「3代将軍徳川家光は、天海大僧正の建言を入れて、陰陽五行説に基づく『黒白赤青黄』の五色不動を配し、江戸のまちを災厄から守る結界とした」。しかし、この説はかなり怪しい。

 目黒の地名は古くからあった。馬の放牧地の周りに畦を盛ったことから「馬(め)畦(くろ)」と呼んだとする説が有力である。そもそも江戸時代には、目黒、目白、目赤の三不動しかなく、目青と目黄は明治以降に名乗られるようになる。江戸川柳に曰く、〈五色には 二色足らぬ 不動の目〉がその証拠だ。目赤不動にも疑義があり、もともと伊賀の赤目山に由来する赤目不動だった。さらに、陰陽五行説では青が東、白が西、赤が南、黒が北、黄が中央を表わすが、目白の西が合っている以外、すべてバラバラである。

 風水では北東を鬼門とし、南西を裏鬼門とする。江戸城の南西に位置する目黒不動は、裏鬼門を封じる重要な位置にある。このため、俗に「目黒御殿」と称されるほど幕府の厚い庇護を受けた。目黒と語呂を合わせるように、当時信仰を集めていた赤目不動の名を目赤に変える。同様に人々の信仰が厚かったもう一つの不動尊を、江戸城の西にあることから目白不動と名づける。当らずといえども遠からず、ではないだろうか。


ド田舎目黒

 目黒区は男性100人に対する女性の割合が114人にのぼり、東京23区で一番多い。所得水準も、23区の平均を大きく上回る。多くの女性たちにとって、一度は住んでみたい憧れのまちだ。ところが、江戸時代は竹やぶが広がり、農村が続く全くのド田舎で、鷹狩りのメッカでもあった。

 家光は、とりわけ目黒での鷹狩りを好んだようだ。江戸城からは、今の三田2丁目にあるつづら折りの坂道を目黒川の方に下っていく道を常とした。この坂道には清水が湧き出、小さな茶屋があった。家光は茶屋の主人を「爺、爺」と親しみ、いつしか坂道は茶屋坂と、茶店は爺々が茶屋と呼ばれるようになる。落語「目黒のさんま」を生み出した、エピソードのひとつとされる。

 今、当時を偲ばせるものは、坂下に建つ「茶屋坂の清水の碑」だけ。辺りには瀟洒な住宅や高級マンションが建ち並ぶ。欠けた皿に焦げたサンマではなく、高級スーパーで買ってきたサンマのマリネが似合いそうなまちに姿を変えた。

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  茶屋坂の清水の碑
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 「目黒のさんま」は、2つのミスマッチがおかしさを誘う。殿様と庶民の魚サンマとのミスマッチ。そして、農村目黒と海の幸サンマとのミスマッチ。「さんまは浦安にかぎる」では、「ああそう」でおしまい。「目黒にかぎる」だからドッときた。今の目黒からは思いもよらないことながら、想像の翼を広げてみると、落語がもっと楽しくなる。