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大江戸列伝銅像つづり -歴史を創った人たち- 《観ずる東京23区 その16》

《観ずる東京23区 その16》





    大江戸列伝銅像つづり -歴史を創った人たち-





            東京23区研究所 所長 池田利道







空より広き武蔵野の原

 日比谷公園内の日比谷図書文化館(旧日比谷図書館)に、太田道灌に関連する図書を集めた「道灌文庫」がオープンした。

 1457(長禄元)年、一面の萱原を開き江戸城を築いた太田道灌は、東京の原点を創った人だ。連戦連勝で武蔵野を平定した道灌は、同時に当代一流の歌人であり、文化人でもあった。上洛し、後土御門天皇に拝謁した際、天皇のお訊ねに次々と即興の歌で応えた逸話は、道灌の才をいかんなく物語っている。

 〈露置かぬ 方もありけり 夕立の 空より広き 武蔵野の原〉。「武蔵野とはどの様な所か」との下問に、「空より広き」と応えた道灌。武人らしい雄大な一首である。

 昔も今も、庶民から愛され続けている道灌人気の高さは、東京23区内に3体の銅像があることによく示されている。1体目は、有楽町の旧東京都庁第1庁舎前に、都庁のシンボルとして置かれていた狩装束の立ち姿像。今は、東京国際フォーラムガラス棟の中に立つ。


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  東京国際フォーラムの太田道灌像
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 現都庁の足元、新宿中央公園にも道灌像がある。跪いて扇を差し出す乙女と一対をなすこの像は、落語でもお馴染の「山吹の伝説」を題材にしたものだ。新宿中央公園は、像を公園のオブジェとしており、台座がある訳でもなく、草むらの中に唐突に置かれた感がある。しかし、そこには粋な仕掛けが。4月になると、像の周りに八重山吹の花が咲く。


道灌どのの物見塚

 3体目は、日暮里駅前広場の騎馬像。こちらも武者姿ではなく狩装束だ。狩りの途中で出合った「山吹の謎」を解くことができず、これを恥じて学問に精進したところに道灌人気の真骨頂がある。だから、狩姿が好まれるのだろうか。


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  日暮里駅前の道灌騎馬像
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 道灌山がある日暮里は、太田道灌と縁が深い。そう思っていたが、道灌山の名は戦国時代に関東を領有した小田原北条氏の家臣関道閑に由来するとの説もあるらしい。ともあれ、道灌が武蔵野を見晴らす斥候台(物見塚)を日暮里に築いたことは間違いない。江戸時代になると、塚のそばに「道灌丘碑」が建てられ、江戸名所のひとつになったという。〈陽炎や 道灌どのの 物見塚 一茶〉。

 塚は鉄道を通すとき削られてしまったが、碑は今も本行寺の境内に残されている。


一町老女残すなり

 東京の繁栄の基礎は、道灌より以上に徳川家康の功績が大きい。ところが、東京には長く家康の銅像がなかった。両国の江戸東京博物館開館を記念して、敷地内に家康像が設けられたのは、ようやく1994年のことである。

 といっても、場所は博物館裏の駐車場通路の脇。通りかかった2人連れの女性の、こんな会話が聞こえてきた。「銅像があるよ」。「誰の?」。「徳川って書いてある」。「徳川だれ?」。「徳川イエヤス。えっ!家康だよ」。「ウッソー」。知名度は、おそらくこの程度だろう。

 歴代将軍をはじめ、徳川家ゆかりの人物の銅像は、東京にほとんど存在しない。両国の家康像と、後楽園駅前の礫川公園にある春日局像くらいだ。なぜ春日局の銅像が後楽園にあるのだろうか。

 後楽園は、東京メトロ丸ノ内線、南北線、都営地下鉄三田線、大江戸線の乗換駅だが、都営地下鉄の方は駅名が後楽園ではなく春日。謎を解くカギがここにあった。

 生まれながらの将軍と自称した3代家光の乳母である春日局は、いささかマザコン気味(?)だった家光の権威を背景に絶大な権力をふるう。大奥を組織化したのも彼女。息子は老中にまで出世し、自身も広大な屋敷地を拝領する。その屋敷地が春日の地名の由来となる。

 古川柳に曰く。〈春の日を 一町老女 残すなり〉。もっとも礫川公園の春日局像は、老女とかお局様というよりも、若き可憐な女性の姿である。


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  後楽園の春日局像
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住み替はる代ぞ雛の家

 目を文化の世界に転じよう。俳句を芸術として完成させた松尾芭蕉。忍者だ、隠密だと謎に包まれている芭蕉が、突然深川に転居したのは1680(延宝8)年のこと。門人から贈られた芭蕉が見事に茂ったことから、住まいは芭蕉庵と呼ばれるようになり、号も芭蕉に変える。同時に、作風も侘び、寂びの世界を極めていく。芭蕉庵の場所は、小名木川と隅田川の合流点近くにある芭蕉稲荷の地とされる。

 深川には2体の芭蕉像がある。ひとつは芭蕉稲荷に隣接する芭蕉記念館分館に置かれた座像。多くの門人を育てた宗匠の姿を彷彿とさせる。もう1体は、仙台堀川海辺橋たもとの採荼庵((さいとあん)跡にある旅姿の像。1689(元禄2)年3月、芭蕉はここから「おくの細道」の旅に出る。


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  採荼庵の芭蕉旅立ち像
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 「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」。芭蕉庵に新しく住む人は、女の子がいるとか。〈草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家〉。「おくの細道」冒頭の句は、芭蕉庵から始まる。

 芭蕉が深川に居を移す20年前、両国に橋が架かる。本所・深川の開発はここから始まった。時の将軍は4代家綱。家康はとうの昔に亡い。両国と家康の収まりが悪いのは、時代が合わないからだ。

 両国橋が架かっても、深川はまだ辺鄙な土地だった。江戸と深川が直接結ばれるのは、1693(元禄6)年に新大橋が架橋されて以降のこと。深川のシンボル八幡様と江戸が永代橋で結ばれるのは、さらに1698(元禄11)年まで待たねばならない。芭蕉がすべてを捨てて深川に隠棲し、芸術を極めようとした覚悟は、こんな歴史を知ることではじめて実感できる。