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さよなら同潤会アパート 《 観ずる東京23区 その13 》

《 観ずる東京23区 その13 》


    さよなら同潤会アパート
 
 
 
          東京23区研究所 所長 池田利道





昭和ヒトケタのハイカラタウン

 東京23区の総住宅戸数のうち、63%がRC造(SRC造やS造を含む)の共同住宅。木造一戸建は21%だから、東京ではマンション族が圧倒的な多数派だ。

 RC造集合住宅*1が東京で最初に登場するのは1923(大正12)年のこと。江東区の旧・東京市営*2(後・都営)古石場第一住宅である。だが、計画的にRC造集合住宅の建設に取り組み、その後の普及の礎を築いたのは同潤会アパートだった。

 関東大震災からの復興を図る中で、住宅供給の担い手として設立された同潤会は、1926(大正15)年から1934(昭和9)年にかけて16か所のRC造アパートを建設していく。同潤会アパートが目指したのは、都市中間層向けの良質な住宅の供給だった。しかし、当時の一般庶民にとって、最新鋭のRC造住宅は高嶺の花。同潤会アパートには、ワンランク上の人しか住むことができなかった。建設場所の選定にも、当然その傾向が反映されている。

 東京23区内の14の同潤会アパート(残る2か所は横浜市)の内訳は、渋谷区が2か所、千代田、港、新宿、文京が各1か所。対して、江東区3か所、墨田区と荒川区が各2か所、台東区1か所。もう少し詳しくいうと、京浜東北線と明治通りの間に8か所がかたまっている。昭和ヒトケタの時代には、どこがあこがれのハイカラタウンだったかを知ることができるだろう。
 
*1厳密に定義すると、共同住宅と長屋を合わせたものを「集合住宅」という。
*2東京市については、[「東京市」って?〈 23区のトリビア 〉]を参照。


最後の同潤会アパート

 同潤会アパートは、近年相次いで解体が進み、現存するのは上野下アパートただ1か所となった。この最後の同潤会アパートも、今年5月には取り壊され、14階建てのマンションに生まれ変わるという。

 稲荷町駅のすぐそば。黄土色の外壁をもつ4階建ての建物が、1929(昭和4)年に建てられた同潤会上野下アパートである。外壁には補修の跡もみられるが、築84年の古さを感じさせない。

 前庭のある西棟は、1~3階が家族向け、4階が独身者向け。家族向けは階段室型の住戸配置であるのに対し、独身者向けは中廊下型。4階部分が出っ張っているのはそのためらしい。

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 同潤会上野下アパート西棟
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 東棟は、清洲橋通りに面する1階部分に4戸の店舗併用住戸が設けられている。見上げなければ、古いアパートの一画だとは気づかない。前庭も店舗もすっかり周辺の風景に溶け込んでいる。地域調和の思想が、この建物の根底にある。西棟4階のオーバーハングも自己主張を感じさせない。昭和の初めの設計者の腕に改めて感服する。

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  同潤会上野下アパート東棟
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木造長屋はまだ現役

 日暮里駅の南。尾久橋通り沿いに建つ28階建てのリーデンスタワーは、同潤会鴬谷アパートの再開発によって誕生した。再開発の歴史を記録した「東日暮里5丁目地区第一種市街地再開発事業誌」によると、鴬谷アパートにはガス、水洗トイレ、ダストシュートが配備され、床は畳ではなくコルクに薄縁を敷いたものだったとか。居住者は選ばれたエリート層で、敷地内に植えられた椿にちなんで「椿御殿」と呼ばれ、人々の羨望を集めたという。

 荒川区の東日暮里地区は同潤会住宅の宝庫だ。2丁目のカンカン森通り沿いにあった三ノ輪アパートはマンションに建て替わったが、お隣の3丁目には同潤会住宅が現役で残る。不良住宅地区改良事業によって、約170戸の2階建て木造長屋が整備された日暮里共同住宅である。完成は1938(昭和13)年。75年の歳月を経た今も、当時の姿を残す建物が並ぶ。

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  同潤会日暮里共同住宅
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被災地に銭湯を!

 同潤会巡りの途中で、同じものに出合った。日暮里共同住宅のすぐそばに雲翠泉。上野下アパートと背中合わせの場所には寿湯。そう、銭湯だ。

 内風呂がごく当たり前の今日、銭湯は急速に姿を消しつつある。「おかみさ~ん、時間ですよ~」の『時間ですよ』が放映を始めるのは1970年。その直前の1968年には23区内で2,400店を超えていた銭湯は、2013年4月現在約650店(休業中を除く)に減少している。それでも人口1万人(概ね小学校1学区に相当する)あたりの店舗数は23区平均で0.7店。台東区では1.7店、荒川区では1.5店を数える。2009年の全国平均が人口1万人あたり0.3店であることと比べると、時代の最先端を走る東京は、同時に過去を持続し続けるまちであることが分かる。

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  上野下アパート裏の寿湯
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 銭湯と同潤会。この2つは決して偶然の一致ではない。関東大震災後の仮設住宅建設から事業をスタートさせる同潤会は、集会所、商店街、銭湯、医療施設、授産施設などを住宅とセットにして供給していく「哲学」を基本としていた。人間の生活には何が必要かを計画の出発点にしたのだ。

 東日本大震災の被災地に建てられた仮設住宅は、あたかもプレハブメーカーの在庫処分場のようだ。この無機質な空間の中で、多くの人々が不自由な生活を強いられ、そして孤独死の悲しい報せが続く。

 文字どおり裸で悩みや愚痴を語り合い、その後の一杯の酒で心と身体の疲れを洗い流す。「被災地に銭湯を!」と、ジョークではなく本気に考える。技術は進歩するが、人の心は退化する。そう言われないためにも、昭和の初めの人たちの心を学び直す必要がある。