≪観ずる東京23区 その6≫
最後のダイヤモンド富士
東京23区研究所 所長 池田利道
富士山と東京
「富士山が見えた!!」 という話は、東京ではさほど珍しくない。
東京都環境局は、都庁の31階(2002年度までは35階)から朝9時に富士山が見えた日の統計を取っている。過去20年間の平均は85日。最多は1999年度の111日。およそ3日~4日に1度の割合だ。トップシーズンは冬。12月~2月の3か月で半数以上を占める。2011年の1月は、何と26日というから、ほぼ毎日富士山が見えたことになる。
起伏が多い東京では、ちょっと小高いところなら、地上からでも富士山が見える場所が多い。千代田区富士見、板橋区富士見町、練馬区富士見台。駅名なら、中野富士見町に富士見ヶ丘(杉並区)。富士見の名がつく学校は、品川区、渋谷区、豊島区、北区にもある。すべて富士見の名所であったことに由来する。
富士には坂道がよく似合う
そんな中でも、坂道から眺める富士山は絶景だ。近景の道、中景のまち、遠景の富士が調和し、えも言われぬ情景を創り出す。数え方によって諸説があるが、東京23区には20を超える富士見坂があるらしい。
普段、何気なく通っている幹線道路にも富士見坂はある。青山通りの宮益坂は、かつて富士見坂と呼ばれた。今、坂の上から見渡せるのは渋谷の雑踏ばかり。富士の姿はかけらもない。
不忍通りの護国寺富士見坂。坂の頂きに立つと、ビルとビルとの間から富士山の右稜線が垣間見える。坂を下るにつれて、富士山がだんだん大きくなっていくから面白い。ほんの150mばかりだが、坂下通りとの交差点付近では山頂がすっかり姿を現す。さしずめ「動く富士」とでもいうところか。
護国寺富士見坂からの富士山
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2005年、国土交通省は「関東の富士見百景」の中で、7つの地区を「東京富士見坂」に選定した。目黒駅周辺(品川区)、青葉台地区、大岡山地区(以上目黒区)、田園調布周辺(大田区)、瀬田・岡本地区(世田谷区)、善福寺地区(杉並区)、日暮里富士見坂の7か所である。
そのうちの1つ。世田谷区の岡本3丁目の坂。多摩川が作った河岸段丘の急坂を、息を切らして登る。振り返ると、丹沢の山並みを従えた雄大な富士が迎えてくれた。
最寄駅は再開発が進む二子玉川。周辺には、三菱財閥岩崎家のコレクションを収める静嘉堂文庫や、江戸時代の農家を再現した岡本民家園もある。晴れた冬の日、是非訪れてみたい場所である。
危機に瀕する富士見坂
トリは日暮里富士見坂。2000年に1.5km先に建ったマンションが左稜線を欠いてしまったものの、今も山頂を仰ぎ見ることができる。坂の下に広がるのはマンション銀座の文京区であることを考えると、まさに奇跡に近い富士の姿だ。
クライマックスは、富士山頂に夕陽が沈むその瞬間、茜色の空に輝くダイヤモンド富士の雄姿。年2回(日暮里富士見坂では1月と11月)、それぞれ数日間だけ、自然が生み出す壮大なショーが出現する。
ところが昨夏、日暮里富士見坂から400m先の不忍通り沿いに、11階建てのマンション建設計画が降って湧いた。完成すれば、坂の真正面に壁の様に立ちはだかり、眺望が完全に遮られてしまう。マンションはすでに着工され、今年の10月末には完成の予定だという。
サイエンスライターの竹内薫氏によると、ミニチュアの富士山を造って身近な富士信仰の場とする「富士塚」は、富士山が見える地域に限られた風習だそうだ。実物を見て観ずるのと、写真や映像を見るのとでは、天と地ほどの違いがある。
日暮里富士見坂の富士山を前に、たまたま来合わせた揃いのジャンパーの青年たちが、一斉に感動の声をあげた。その感動が、間もなく消えようとしている。
権利か、文化か
眺望権とか景観権という言葉が定着し、裁判で争われる例も少なくない。だが、土地所有者の立場に立てば、自分の土地に適法な建物を建てることが、なぜ制限されるのかとなる。
富士山の眺望となると、ことはなおさら厄介だ。ビスタライン上のすべての建物の高さを制限するなんてことは、そう簡単に実現しそうにない。権利と権利がぶつかると、必ずドロ沼化してしまう。
葛飾北斎の『富嶽三十六景』。実は「裏富士」を合わせて46景あるが、うち17景が東京23区を舞台とする(23区か多摩地域かの特定ができない「武州玉川」を除く)。東京は、常に富士の姿と寄り添い続けてきた。そこに、東京の文化風土の底辺が横たわる。
権利ではなく文化という視点に立って、大人の議論を交わすことができる日が待ち焦がれる。
2013年1月。日暮里富士見坂に最後のダイヤモンド富士が姿を見せる。天候次第だが、可能性があるのは28日~31日の4日間。時間は午後4時50分~55分ごろ。
カメラを捨てて、心の中に感動と反省を焼きつけておきたい。