記事一覧

橋のフォルム 《 観ずる東京23区 その18 》

 《観ずる東京23区 その18》


        橋のフォルム





                        東京23区研究所 所長 池田利道






意匠美を超える構造美

 「うまれ浪速の八百八橋~」。村田英雄には申し訳ないが、江戸時代の大阪には200ほどしか橋がなかったらしい。これ対して、江戸の橋はおよそ350。ちなみに、「大江戸八百八町」の方は、18世紀半ばには約1,680町を数えたそうだ。やっぱり東京はスケールがでかい。

 現在、東京23区内の橋の数は優に2千を超える。そんな中から名橋を選ぶとなると、これはもう完全に趣味の領域だろう。ということで、独断と偏見に基づきお茶の水の聖橋を一番バッターに取り上げる。関東大震災からの復興事業の中で、1927(昭和2)年に完成した鉄筋コンクリートアーチ橋である。湯島聖堂とニコライ堂(東京復活大聖堂)結ぶ位置にあることから、その名がついた。

 聖橋は、船に乗って川から見上げたとき最も美しく見えるように設計されている。御茶ノ水駅(駅名の方はこう書く)のホームから見上げると亜体験ができる。だが、個人的には、お茶の水橋からの眺めが好きだ。都心にあって渓谷を思わせる切通しの崖の緑と、優美なアーチが絶妙に調和する。そこには、デザインを超えた美しさがある。

デザインとは意匠。意匠とは工夫を凝らした装飾。しかし、橋の美しさは構造美そのものだ。デザインというより、フォルムと呼ぶにふさわしい。

ファイル 43-1.jpg
  聖橋
   ※画像はクリックで拡大。


最下流の橋

 聖橋の下を流れる神田川は、両国橋の北で隅田川に合流する。その最下流にあるのが柳橋。〈おしろいの 風薫るなり 柳橋 子規〉。柳橋は由緒ある花街だが、今回の主役は橋。最初の架橋は元禄時代まで遡る。現在の橋が架けられたのは1929(昭和4)年。これも復興橋梁のひとつである。形式は鋼タイドアーチ橋。アーチと橋桁をタイ(弦)で繋ぐ、タイドアーチの教科書のような橋だ。

 聖橋と柳橋はともにアーチ橋。見た目はかなり違うが、橋桁にかかる荷重をどの様な方法で支えるかによって橋の分類は決まる。橋の分類にはもうひとつ指標がある。人や車が通る通行面が、アーチやトラス(三角形の連続)などの橋を支える構造より上にあるものを上路橋、下にあるものを下路橋と呼ぶ。聖橋は上路式アーチ橋、柳橋は下路式アーチ橋である。

ファイル 43-2.jpg
  柳橋
   ※画像はクリックで拡大。

 飯田橋と水道橋の間で神田川から分かれる日本橋川。川の上部の大半を高速度道路が覆う可哀そうな川だ。隅田川との合流部手前で高速道路が箱崎の方にカーブし、ようやく空が見渡せるようになる。最下流にある豊海橋は、フィーレンデール橋と呼ばれる珍しいフォルムをもつ。一言でいえば梯子を横にしたような形。これも復興事業によるものである。

ファイル 43-3.jpg
  豊海橋
   ※画像はクリックで拡大。

 日本橋川支流の亀島川最下流に架かる南(みなみ)高橋(たかばし)は下路式トラス橋。趣は深いがどこか中途半端に見えるのは、この橋の来歴を物語っている。震災復興事業の予算が苦しくなり、旧両国橋の3連トラスのうち被害の少なかった中央部分をリサイクル利用して架けられた。

ファイル 43-4.jpg
  南高橋
   ※画像はクリックで拡大。


昭和の初めの景観計画

 柳橋も、豊海橋も、南高橋も全て下路橋。同じ震災復興橋である神田川第2橋の浅草橋、日本橋川第2橋の湊橋はともに上路式アーチ橋。亀島川第2橋の高橋(たかばし)は、現在は没個性な桁橋ながら、1919(大正8)年に架橋され、関東大震災に耐えた旧橋は、やはり3連アーチの上路橋だった。

 河口の第1橋を下路式としたのは、船運への配慮に加え、川を遡る船頭の分かりやすい目印になるという意味があった。景観とは単なる「見た目」ではなく、機能性と表裏一体化したものであることを、昭和初期の技術者は熟知していたのだ。


陸橋のフォルム

 目白駅から目白通りを学習院の方向に進むと、やがて明治通りと立体交差する。交差点の名前は千登世橋。1933(昭和8)年に完成した東京で最初の立体交差橋である千登世橋は、上路式アーチ橋の見事なフォルムをもつ。現在なら陸橋は機能性一辺倒とされるところだが、この橋は逆に、市街地の中にあるからこそ景観性を重視して設計された。

ファイル 43-5.jpg
  千登世橋
   ※画像はクリックで拡大。

 陸橋といえば、横断歩道橋も橋だ。1960年代初め、モータリゼーショのン急激な進展が、交通地獄という負の側面を深刻化させる。時あたかも、東京はオリンピック前の道路建設ラッシュの時代。このとき、歩行者を守る切り札として登場したのが横断歩道橋だった。五反田駅前に東京最初の横断歩道橋が設置されたのは、オリンピック前年の1963年のことである。

 1960年に東京のひとつ前のオリンピックが開催されたローマを、当時の東都知事が視察したとき、歩道橋を見て「これだ!」と叫んだという伝説がある。この話には、実は東知事が見たのは選手村に臨時に設けられた仮設の橋だったという落ちがつく。ことの真偽は定かではないが、ローマをはじめ西欧の都市で、横断歩道橋は全くといっていいほど普及していない。景観を悪化させることが最大の要因だとされる。

 お年寄りや赤ちゃん連れの人などにとって、階段の上り下りも大きな負担だ。最近は、エレベーターやエスカレーターのついた歩道橋もあるが、道路を渡るだけなのに貴重なエネルギーを使うというのも、どこか腑に落ちない。

 東京23区内の都知事管理の道路(国直轄の国道や区道を除く)に架かる横断歩道橋の数は、2012年現在で495橋。1987年には580橋だったから、25年間で100橋近く減っている。自動車優先の発想から生まれた横断歩道橋は、時代の変遷の中で徐々に姿を消しつつある。

 もし、横断歩道橋が景観に溶け込む優れたフォルムに設計されていたら。歩道橋はもっと違う進化を遂げていたかも知れない。ふと、そう考えてしまった。