《 観ずる東京23区 その19 》
続・橋のフォルム
東京23区研究所 所長 池田利道
都市計画100年の申し子たち
橋のフォルムを語るなら、隅田川に架かる復興橋梁を忘れる訳にはいかない。
関東大震災は、隅田川の橋にも壊滅的な被害をもたらす。生き残ったのは、わずかに新大橋だけ。東京が東西に二分されてしまったのだから、橋の復興は最重点課題のひとつとされた。俗に「隅田川六大橋」と呼ばれる言問、駒形、蔵前、清洲、永代、相生の各橋は、内務省復興局が直轄で施工したものだ。吾妻、厩、両国の3橋は、当時の東京市が復興を担当する。
震災復興では、幹線道路の整備も重要事業となる。基本骨格は、昭和通り、大正通り(現靖国通り)、明治通りの丸に十の字形。その意味では、昭和通りに繋がる千住大橋、明治通りに架かる白鬚橋も復興橋梁と呼んで差支えないだろう。
これら11の復興橋梁のうち、最下流(正確には晴海運河に続く隅田川派川)の相生橋は、老朽化が激しく1998年に架け替えられるが、残る10橋は完成後80年以上を経た今も現役である。当時と現在とでは、交通量は想像を絶するほどに増えている。ひと口に都市計画100年というが、100年先のことなど誰も分からない。にもかかわらず、なお現役であり続ける復興橋梁群。フォルムを語る前に、橋としての技術水準の高さに、まずもって脱帽するところから始めねばならない。
双子の門
隅田川最下流に架かる勝鬨橋が完成するのは1940(昭和15)年。佃大橋は1964年。中央大橋はずっと下って1993年。震災復興当時隅田川の第1橋梁だった永代橋は、「帝都の門」として設計される。そのフォルムは、ドイツライン川に架かるレマゲン橋(ルーデンドルフ橋)をモデルにしたとも、清洲橋のモデルとなったケルン吊橋の設計コンペで、惜しくも落選した案を元にしたともいわれている。
形式は、アーチの裾を長く伸ばし、支点に掛かる力のバランスを取る鋼バランスドタイドアーチ橋。このアーチの裾こそ、永代橋の最大の特徴である。
永代橋の上流には隅田川大橋が架かるが、これも1979年完成の新しい橋で、昭和の初めは清洲橋が第2橋梁だった。このため清洲橋は、永代橋と対になって帝都の門を構成する橋と位置づけられた。アーチ橋である永代橋の上向きの曲線に対する下向き曲線。清洲橋に吊橋を採用した理由は、永代橋との対比にあった。永代橋と清洲橋は2橋でワンセットを形作る、いわば双子の橋である。
ワイルドだろう~
一般に清洲橋は女性的で優美なフォルム、永代橋は男性的で力強いフォルムと形容される。清洲橋の優美さには全く異論がない。永代橋の力強さは、橋の上に立ってアーチ構造を見上げるとなるほどと納得できる。かつては、歩いて橋を渡る人が多かったから、永代橋の力強さを実感することができたのだろう。しかし今、車はあっという間に橋を通り過ぎてしまう。橋のフォルムは、遠目で眺めるものになった。そのとき、裾の長い曲線は、むしろ優美と目に映る。男性的だと強調されると、草食系のイケメンかと思ってしまう。
清洲橋
※画像はクリックで拡大。
永代橋
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永代橋を真似て設計したといわれる白鬚橋も長く裾を引いている。しかし、白鬚橋は永代橋よりはるかに男っぽい。その理由は、この橋がアーチとトラスの複合形だからだ。曲線は女性的。直線は男性的。とりわけ、どっしりとしたトラスの三角形は、男性的な力強さにあふれる。
内務省復興局は、復興橋梁の設計にあたってなぜかトラスを排除した。だが、当時東京市外にあった白鬚橋は、トラスを大胆に採用する。もっと男性的なのは、トラスと組み合わせたアーチの裾を鉈で断ち切ったような千住大橋。そこには筋骨隆々たる剥き出しの構造美がある。今風に表現するなら、「ワイルドだろ~」だ。
国道4号に架かる千住大橋は、交通量の増大に対処するため、桁構造の新橋が1973年に架橋され、旧橋は下り専用となった。新橋によって景観は大きく阻害されたが、旧橋を残したことは英断と評するほかない。
吾妻橋から蔵前橋まで。わずか1km強の間に、吾妻、駒形、厩、蔵前の4橋が並ぶ。そのいずれもが3連アーチ橋である。吾妻橋と蔵前橋はともに上路式の3連アーチ橋。同じ形式であるが、吾妻橋は洗練さを、蔵前橋は重厚さを感じさせる。厩橋は、リズミカルな下路式3連アーチ橋。復興計画の担当者は、ゲートブリッジである永代・清洲の両橋以外は、船運に配慮して上路式を基本とし、止むを得ない場合に限り下路式を採用したようだ。厩橋が下路式となったのは、橋のたもとで幹線道路が交差しており、上路式とするための橋桁の高さを確保できなかったからだと考えられる。
同じ様な道路条件にある駒形橋は、内務省直轄の威信をかけて、あくまでも基本原則にこだわりながら見事な答を導き出した。両端に小さな上路アーチ、中央に大きな下路アーチの組み合せである。よく見ると中央部のアーチの先端は橋桁の下まで伸びている。こうした形式を中路式という。中路式を採用することで、3つのアーチの連続性が確保されるとともに、橋全体に安定感が生み出されている。あたかも、両側に脇侍を控えた三尊像をみるようだ。
現在の感覚からすれば、上路式より下路式の方が景観に与えるインパクトが強いように思える。とすれば、上路式を基本とする復興橋梁は、景観への配慮が欠けていたのだろうか。謎は橋を歩いてみれば解ける。駒形橋も蔵前橋も、橋脚の上にバルコニー空間が設けられている。当時の橋は歩いて渡るもの。しかも場所は、東京随一の繁華街浅草。橋の景観要素は、川の景色を眺める舞台と位置づけることに、しっかりと配慮されていた。
引き継がれる伝統
フォルムを重視する復興橋梁の伝統は、隅田川の橋梁にその後も引き継がれていく。全長23.5kmに架かる26の橋(高速道路橋を除く)のうち桁橋は少数派で、半分がアーチ橋。アーチといっても様々な形がある。2007年に開通した最年少の新豊橋は、数々の賞に輝いた現代アーチの名橋だ。
1976年に架け替えられた新大橋は、主塔から斜めに張ったケーブルで橋桁を支える斜張橋。「バブルの落とし子」と揶揄される中央大橋も斜張橋である。復興橋梁の呪縛が解けたかのように、新しい相生橋はトラス橋だ。隅田川はまさに橋の博物館。橋のフォルムに反映される時代の変化を追ってみるのも面白い。
隅田川だけでなく、荒川にも名橋は多い。5連アーチの旧小松川橋は姿を消したが、吊橋と桁橋を組み合わせた葛西橋、桁橋をアーチが補強するランガーアーチの四ツ木橋、トラスの名橋木根川橋などなど。通勤途上にある橋を、途中下車して訪れてみてはどうだろうか。震災で歩いて帰宅しなければならなくなったときの、格好の下見にもなるはずだ。