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大江戸列伝銅像つづり -時代を開いた人たち- 《 観ずる東京23区 その17 》

《観ずる東京23区 その17》


     大江戸列伝銅像つづり -時代を開いた人たち-





                       東京23区研究所 所長 池田利道






四千万歩の男

 1828(文政11)年、シーボルト事件が幕府を騒然とさせる。わが国に近代医学を伝えたシーボルトが、帰国にあたり禁制品の日本地図を持ち出そうとしたのだ。地図の名は「大日本沿海輿地全図」。俗に、「伊能図」と呼ばれるものである。

 商人として大きな成功を収めた伊能忠敬は、50歳を過ぎてから天文学の勉強を始める。さしずめ定年退職後の第2の人生といったところか。全国測量の旅を始めるのは56歳のとき。72歳で最後の測量を終えるまでに歩いた距離は4万3千km。『四千万歩の男』とは、忠敬を主人公にした井上ひさしの小説だが、彼が生涯歩いた距離はとても4千万歩では済まなかったようだ。

 伊能忠敬の銅像は、深川冨岡八幡宮の境内にある。旅の始めに必ず詣でたゆかりの場所だ。同じ深川、同じ旅姿ながら、採荼庵の芭蕉像が超然とした風を漂わせているのに対し、忠敬像からは困難に立ち向かおうとする強い意志が伝わってくる。

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  富岡八幡の伊能忠敬像
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二十歳の龍馬像

 伊能忠敬が地図作りの旅に出るのは、純粋に学問的な興味からだったらしい。しかしその背景には、国防のために正確な地図を必要とする当時の世相があった。やがて、黒船の来航を契機として、時代は一気に沸騰する。それは、太平の眠りの中で溜まりに溜まったマグマの爆発であった。そう考えなければ、幕末から維新にかけての短い期間に、次々と英傑が輩出する謎が解けない。

 維新の英傑を人気投票にかければ、トップは間違いなく坂本龍馬だろう。龍馬は、19~20歳と22~24歳の2度江戸に遊学している。1回目は、1853(嘉永6)年4月から翌年6月までの15か月間。黒船来航が1853年6月だから、江戸にいた龍馬は幕府の震撼を肌で感じたはずだ。

 俄か防衛論が騒がれる中、土佐藩も品川立会川の下屋敷に隣接する鮫洲抱屋敷内に浜川砲台を築く。遊学中の龍馬は、駆り出されるようにして砲台警護の任にあたる。この若き日の龍馬像が、立会川駅前の商店街の中にある。

 龍馬の江戸遊学は、剣術修行が主目的であった。だが、黒船騒ぎが一段落した1853年12月に佐久間象山の私塾に入門するなど、時代のうねりを目の当たりにしたことが、後の龍馬に大きな影響を与えたことは想像に難くない。「日本を今一度せんたくいたし申候」。重い時代の扉を開く龍馬の原点を、二十歳の像に垣間みることができる。

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  立会川の二十歳の龍馬像
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江戸を守ったふたり、江戸を愛したふたり

 維新英傑番付の東の横綱が龍馬なら、西の横綱は西郷隆盛。上野のお山の西郷像はご存知のとおりだ。顔が似ているの似ていないのと、世間はおもしろおかしく評し立てるが、高村光雲作のこの像は、それ自体がひとつの芸術である。

 上野の西郷像は、東京にあるというより日本の首都にあるという意味が強い。だが、西郷と江戸のまちには深い繋がりがある。秒読み段階に入っていた官軍の江戸総攻撃は、西郷の最終決断によってギリギリのところで回避される。

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  上野の西郷隆盛像
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 このとき、西郷を動かし、歴史を動かしたもうひとりの立役者が勝海舟。本所生まれの海舟像は、墨田区役所の脇に建つ。前に伸ばした指先と遠い目線は、未来を見通しているようだ。墨田区には、本所4丁目の能勢妙見堂内にも海舟像がある。こちらは、洋装の胸像である。

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  墨田区役所脇の勝海舟像
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 道灌、家康、春日局、芭蕉、伊能忠敬、龍馬、西郷。考えてみれば、いずれも江戸の生まれではない。海舟にして、ようやく江戸っ子の登場だ。ならば、江戸っ子をもうひとり。

 海舟とは異なるやり方で幕臣としてのけじめをつけた榎本武揚。明治の世になって以降は、海舟と同様新政府の一員として新たな時代づくりに力を尽くす。下谷の生まれながら、墨東をこよなく愛した武揚の銅像は、墨田区の梅若公園にある。海舟像の背中を見るような位置と向きに、ふたりの事績を重ね合わすのは考え過ぎだろうか。

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  墨堤梅若公園の榎本武揚像
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東京の意外な弱点

 日暮里の道灌像、立会川の龍馬像、墨田区役所の海舟像。これらには共通点がある。いずれも地元の人たちが建てたものだ。郷土を知り、郷土を愛する心を育むうえで、郷土の偉人の銅像は分かりやすい出発点となる。地元の芸能人にばかりやたら詳しい若者も、銅像を見て郷土の歴史や文化に興味が芽生えれば、もっと深く自分たちのまちを知りたくなってくる。

 そうなったら、次は博物館の出番。ところが、東京には意外と博物館が少ない。博物館類似施設を加えた総博物館数の都道府県別順位は、1位が長野県、2位が北海道で、東京都はようやく3位。人口10万人あたりでみると、47都道府県中43位。全国平均の半分、トップの長野県と比べると7分の1しかない。何でも一番の東京にとって、手痛い弱点である。

 区役所や市役所に像はつきものだが、中身は女性像や子ども像など無難なものが多い。そんな中で、区役所の脇に郷土の偉人勝海舟の銅像を置く墨田区。この区には、文部科学省の統計には出てこない区指定の「小さな博物館」が25か所以上もある。産業をメインテーマとする「小さな博物館」は、同じく区指定の「マイスター」「工房ショップ」と三位一体をなし、“匠のまち墨田”の郷土文化を凝縮している。

 スカイツリーを見上げた後に、墨田区の足元を見つめてみよう。榎本武揚はこういった。「学びてのち足らざるを知る」と。まずは学ぶことが始まりとなる。