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三の酉  《 観ずる東京23区 その35 》

 《 観ずる東京23区 その35 》


           三の酉




                       東京23区研究所 所長 池田利道



2あまり6

 今年の「お酉さま」は、一の酉が11月3日、二の酉が15日、三の酉が27日。三の酉まであった。

 「三の酉のある年は火事が多い」。よく知られた言い伝えだが、東京消防庁は、「三の酉のときに火事が増えたという記録はない」と、はっきり否定している。

 酉の市は、霜月(11月)の酉の日に開かれる。1か月30日に十二支を当てはめて行くのだから、30を12で割って「2あまり6」。つまり、三の酉がある確率は6割る12で2年に1回となる。実際、過去に三の酉まであった年は、2011年、2008年、2006年、2004年、2002年、2001年。ほぼ2年おきだ。東京消防庁の見解を待つまでもなく、火事が多い年と少ない年が繰り返される訳がない。

 統計データが示しているのは、冬に火事が多いという事実である。東京消防庁管内の1日あたり火災発生件数の過去3年間の平均値は、1月が最も多く18.1件。次いで2月(16.8件)、12月(16.7件)の順。一番火事が少ないのは6月(11.5件)で、1月とは1.5倍以上の差がある。

 三の酉は、必ず11月25日以降となる。旧暦だった時代では現在の12月中~下旬。まさに火災発生最悪シーズンに差しかかる時期だ。暖房を生火に頼らざるを得なかったかつては、今以上に冬は火の用心に心掛けねばならなかった。「三の酉の頃から火事が多くなる」。おそらくここら辺りから、三の酉と火事にまつわる伝説が生まれたのだろう。


おかめの右頬

 酉の市は、新宿の花園神社や府中の大國魂神社など、今では東京の各地で催される。だが、規模や賑わいの大きさは、台東区千束の鷲(おおとり)神社の酉の市をおいて他にない。

 地下鉄の三ノ輪駅から国際通りに沿って、露店がズラリと並ぶ。だが、酉の市の呼び物といえば、何といっても境内にひしめく熊手市だろう。鷲の爪に見立てた縁起物で、「福をかきこむ」になぞらえて「かっこめ」とも呼ばれる。値段は、「まけた(負けた)、買った(勝った)」の駆け引き次第。商いが成立すると、威勢のいい手締めが響きわたる。

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  「お酉さま」名物の熊手
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 鷲神社の酉の市は「おかめ」も名物。江戸時代から続く「なでおかめ」は、撫でる場所でご利益が異なる。鼻は金運、向って左の頬は無病息災、右の頬は縁結び…。神社によると、最近右頬の黒ずみがとみに進んでいるとか。婚活世代の若者の参拝が増えているのなら、江戸の粋が凝縮した酉の市にとって、明るいニュースである。

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  なでおかめ
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吉原名残り散策

 鷲神社と吉原は背中合わせの位置にある。神社を裏から出て路地を抜けると、もうそこは吉原のメインストリート仲の町。通り沿いには引き手茶屋が並び、その奥に遊女屋が軒を連ねた。

 吉原のシンボル大門の位置は、今の吉原交番の辺りだったと伝えられている。交番の角を左に曲がると道は下り坂となり、一段高い吉原側の敷地との間に古びた石垣が残る。「お歯黒どぶ」の跡だ。ドブといっても、幅が5間(約9m)もあったというから立派な堀。吉原は、堀に囲まれた城郭構造だった。もちろんその目的は、敵が攻めてこないようにではなく、遊女が逃げないように。遊女は妓楼の財産であると同時に、亡くなると寺に投げ捨てられた消耗品でもあった。「投げ込み寺」と伝えられる三ノ輪の浄閑寺の墓所には「新吉原総霊塔」が残る。

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  お歯黒どぶ跡の石垣
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 交番から先、土手通りまでの間は道が「くの字」に曲がりくねっている。「五十間道」の名残りで、道が曲がっているのは外から中が見通せないようにしたため。これも城郭構造の特徴を伝える。

 土手通りとの角には、見返り柳がひょろりと立つ。「新吉原衣紋坂見返り柳」の碑が、かろうじてこれがあの有名な柳の木かと思わせるばかりだ。ちなみに、「衣紋坂」の名は、吉原に向かう遊客がここで身だしなみを整えたことに由来する。

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  見返り柳
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 土手通りは、「土手八町」と呼ばれた山谷堀の土手道とほぼ同じ場所。お大尽は猪牙船に乗って山谷堀を遡り、吉原に乗りつけたという。もっとも、山谷堀は狭く、船が通れなかったとの説もある。どちらが正しいか、今は確かめようもない。


おかめ異聞

 樋口一葉の『たけくらべ』。クライマックスは三の酉の日。髪を嶋田に結い、京人形のように着飾った大黒屋の美登利が、「ゑゝ厭や厭や、大人に成るのは厭な事」と泣き伏す場面だ。美登利の憂鬱と対をなすように、一葉は三の酉の吉原の賑わいを活き活きと描きあげる。

 酉の市の日、吉原は普段閉めきっているすべての門を開け放ち、遊女は昼見世を張って客を迎えた。それは、鷲神社酉の市のもうひとつの名物、生きたおかめ。江戸川柳に曰く、「お多福に 熊手の客が ひっかかり」。

 江戸の女房は我慢強かったのか、我慢強さを強いられていたのか。酉の市のときくらいは、亭主の悪所徘徊を大目に見た。しかし、それも年に2度が限界。3回目になると角が生える。

 一方、バカで助平な男どもは、三の酉の年は3回吉原詣でができるとばかり、朝から鼻の下を伸ばしてソワソワ。仕事も早めに切り上げ、夕飯をかっ込むと、「おい、お酉さまに行ってくらあ」。

 女房、亭主の背中にピシャリと一言。「あんた。今日は早く帰ってきておくれ。三の酉の年は火事が多いんだから」。

 かくして伝説は、庶民の中に根づいていった。