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河岸とやっちゃ場 《 観ずる東京23区 その32 》

 《 観ずる東京23区 その32 》


           河岸とやっちゃ場




                       東京23区研究所 所長 池田利道




メガトン級の食材供給基地

 10月になっても真夏日という異常な暑さも落ち着いて、ようやく秋がやってきた。読書の秋。芸術の秋。スポーツの秋。行楽の秋。秋を彩る言葉は数々あるが、やはり食欲の秋に優るものはない。

 東京の胃袋はそこはかとなく大きい。それを縁の下で支える力持ちが中央卸売市場だ。東京23区には10か所の中央卸売市場がある。その合計取扱量は、1日あたり水産物が約2,000t、青果物が約7,500t、食肉が330t、花卉が570万本。足しあげるとおよそ1万t。金額にして42億円。年間3メガトン近い食材が、巷に供給されていることになる。


川岸に現われた竜宮城

 10の中央卸売市場の頂点に君臨するのが築地市場。1日あたりの取扱金額は18億円を超える。この数値はあくまでも場内に限ってのもの。築地には、物販・飲食等あわせて約400店の場外市場が控える。東京一どころか、日本一、いや世界一の市場である。

 築地市場は、江戸の昔から天下の台所を賄ってきた日本橋魚市場(魚河岸)が移転してきたものだ。日本橋の北詰には、「日本橋魚市場発祥の地」の碑が建つ。椅子に座った女性の像は乙姫様。〈日本橋 竜宮城の 港なり〉の川柳に由来する。江戸時代には鮮魚を満載した船が日本橋川の岸に集まり、桟橋に横付けした平田舟の上で取引が行われという。まさに川と一体化したマーケットであった。

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  日本橋魚河岸跡
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 日本橋はわが国有数の老舗の集積地でもある。1688(元禄元)年創業の練製品の神茂をはじめ、海苔の山本山(1690年創業)、鰹節のにんべん(1699年創業)、乾物の八木長(1737年創業)、包丁の木屋(1792年創業)…。海産物に関連する店の多さが、魚河岸の歴史を伝えている。

 築地場外市場は、魚・塩干物店と寿司屋が130店を超えるのに対し、青果物店は20数店。このため、築地というと水産物のイメージが強い。だが、市場取扱量の4割は青果物が占める。実は築地市場は、関東大震災でともに壊滅的な被害を受けた日本橋魚市場と京橋青物市場が合体してできた。

 首都高会社線は、旧京橋川の上を走る。この京橋川の水運を利用して、江戸時代から京橋の地に青物市場が開かれた。俗にいう「京橋大根河岸」である。中央通りとの交差部近くにある「京橋大根河岸青物市場蹟」の碑が、忘れられがちな築地市場のもうひとつのルーツを語り継いでいる。

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  京橋大根河岸跡の碑
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産直市場の原点

 日本橋の魚河岸には、鯛や鰹など江戸湾外からの近海物も集まった。これに対して、もっぱら江戸湾で獲れた小魚を扱ったのが、雑魚場と呼ばれる浜商いだった。今風にいうなら漁港直結の産直市場。その代表が芝の雑魚場だ。落語「芝濱」の舞台である。

 田町駅のすぐそば、山手線内側の線路に接した本芝公園内に雑魚場跡の標柱が建つ。ということは、JRの線路が海岸線。1872(明治5)年に開通した新橋~横浜間の鉄道は、芝の辺りは海上に築かれた堤防の上を走っていたという。ウォーターフロントのタワーマンションも、バブルの時代に一世を風靡したジュリアナ東京も、かつては海の中だった。

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  雑魚場跡の標柱
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 「芝濱」を高座にあげる噺家は多い。筆者のお勧めは先代(5代目)の三遊亭圓楽。珠玉とされる芝濱の下げを、先代圓楽はギリギリまで贅肉を落として語った。「よそう、また夢んなる」。簡にして、いや簡なればこそ心に残る。


投師のロジスティクス

 千住大橋駅を降りて日光街道を渡ると足立市場の正門前に出る。足立市場は、取扱量も取扱金額も、23区内の中央卸売市場の中で一番小さい。しかし、歴史は飛び切り古い。市場正門の横に「此処は元やっちゃ場南詰」の看板。墨堤通りとの交差点までの間、旧日光街道に沿って千住青物市場が広がっていた。その歴史は、1570年代まで遡るというから、家康よりも先輩だ。ちなみに「やっちゃ場」とは、セリの声が「やっちゃい、やっちゃい」と聞こえたことから生まれた。

 今、やっちゃ場跡は住宅が目立つが、建物の壁や軒下に店名と業種を記した木の看板が掲げられ、当時を偲ぶことができる。元青物問屋や果物専門問屋はいうに及ばず、川魚問屋、めしや、酒屋、たび屋、両替商などなど。千住葱専門問屋の看板は、いかにも千住らしい。1軒だけ「元」がついていない蒟蒻屋には、5代目と記されている。

 なかに「投師」と書かれた看板がある。投師は、セリで仕入れた商品を大八車に積み込み、他の市場に駆けつけて売りさばく、千住やっちゃ場特有の商売であった。何を仕入れると儲かるかは情報が命。パソコンンも携帯電話もない時代に戦略ロジスティクスを実践していた投師が、昭和の初めには150人ほどもいたらしい。

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  千住やっちゃ場投師の看板
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神田、秋葉原は何のまち?

 江戸のまちには、ほかにも2か所の青物市場があった。ひとつは、「辻のやっちゃ場」と呼ばれた駒込土物店(つちものだな)。巣鴨のお地蔵さまのそばにある豊島市場のルーツである。もうひとつが神田の青物市場。勇み肌がいなせな神田っ子とは、青物市場で働くお兄さんを指したのが始まりとの説もある。

 多町大通りの靖国通りとの交差点手前に「神田青果市場發祥之地」の碑が残る。神田青果市場も関東大震災によって大きな被害に見舞われ、1928(昭和3)年に秋葉原に移転する。神田といえば古本のまち、秋葉原は電気のまちが通り相場だが、神田の古本街は明治生まれ。秋葉原の電気街はもっと新しい戦後世代。神田も秋葉原も、元は野菜のまちだった。

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  神田青果市場発祥の地
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 秋葉原の青果市場は1989年に大田区に再移転し、跡地は秋葉原クロスフィールドに姿を変える。UDXビル前の植え込みに、「神田青果市場跡地」の石盤。それ以外、かつてここに市場があった証は何もない。

 都心にあって広大な面積を持つ市場の移転跡地は、洋の東西を問わず再開発の格好のタネ地とされてきた。移転が迫る築地市場の跡にはどんなまちが生まれるのだろうか。金太郎飴では知恵がない。土地にしみ込んだ歴史を踏まえつつ、雄大な未来を描き出して欲しい。都市計画の腕が問われている。