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本所吉良邸  《 観ずる東京23区 その36 》

 《 観ずる東京23区 その36 》


           本所吉良邸




                       東京23区研究所 所長 池田利道



義士祭と吉良祭

 12月14日は赤穂四十七士討ち入りの日。実際は翌15日の未明だったらしいが、事実はともあれ史実としての忠臣蔵の討ち入りは14日に決まっている。

 目指すは本所吉良邸。両国駅の南に、なまこ塀に囲まれた小さな公園がある。昭和の初め、旧吉良邸の一画を地元の有志が購入し、当時の東京市に寄付してできた「本所松坂町公園」である。

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  吉良邸跡
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 12月14日には、赤穂浪士ゆかりの地の例に違わず、本所松坂町でも「義士祭」が催される。同時に12月14日に近い土曜・日曜には、「吉良祭」も開かれる。「吉良祭」では、地元手づくりの露店が並ぶ「元禄市」が併催され、実は名君だったといわれる吉良上野介や、討ち入りで命を落とした吉良の家臣を賑やかに偲ぶ。吉良も浅野も、敵も味方もない。これぞ下町人情の真骨頂。今年は14日が土曜日にあたるため、「義士祭」と「吉良祭」が同じ日となり、本所の人たちの優しさがなお一層引き立った。

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  吉良上野介の像
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AKOは46、47、48?

 本懐を遂げた四十七士が向ったのは、主君浅野匠頭が眠る高輪泉岳寺。その後、幕府に自首し、大石内蔵助ら17名は細川家下屋敷に、10名は伊予松山松平家中屋敷に、10名は長府毛利家上屋敷に、9名は岡崎水野家中屋敷に預けられ、切腹後揃って泉岳寺に葬られた。泉岳寺境内の赤穂義士墓所には今も参拝の人が絶えない。

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  泉岳寺義士墓所入口の門
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  赤穂義士の墓
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 泉岳寺には、「首洗井戸」や「血染の石」などの史跡も多い。見逃せないのが義士墓所入口に建つ門。浅野家鉄砲洲上屋敷の裏門を移築したもので、小ぶりながら大名屋敷の風格を感じさせる。

 ところで、各大名お預けの人数を足すと46人。一方、泉岳寺の義士墓地にある墓の数は合わせて48。赤穂義士は一体何人だったのか。

 マイナス1は寺坂吉衛門。足軽だった吉衛門は、討ち入り後姿を消す。逃亡説もあるものの、大石の密命を受けて仇討本懐の報せを関係各所に伝えたとするのが通説。後に自首するが罪に問われず、天寿を全うする。この吉衛門の供養墓も、泉岳寺に祀られている。

 プラス1は、『お軽堪平』のモデルとなった萱野三平。実際は駆落ちの果てではなく、主君への義と親への孝の板挟みに合って討ち入り前に自害した。その思いを踏まえ、義士列柱のひとつに並ぶ。


テロか、義挙か

 赤穂浪士がお預けとなった細川家下屋敷は今の高松宮邸一帯。松山松平家中屋敷はイタリア大使館。長府毛利家上屋敷は六本木ヒルズ。岡崎水野家中屋敷は田町駅近くにあった。各所とも史跡が散逸し、かろうじて高松宮邸の近くに「大石良雄外十六人忠烈の跡」が残されているに止まる。

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  大石良雄外十六人忠烈の跡
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 今にして思えば、4家はそれぞれに頭を悩ませたことだろう。赤穂浪士の行為は正義か不正義かが、討ち入り後喧々諤々の議論となったからだ。

 深夜徒党を組んで他家に押し入り、主人の首をはねたのだから、今でいえばテロ以外の何物でもない。しかも、御家再興がならなかったから討ち入りに及んだ彼らの動機は私怨に尽きる。その一方で、武士がかつての戦闘集団から官僚への路を歩む時代に抗う人々からは、浪士の行動を「武士の鑑」と称賛する声もあがった。幕府の評定が磔獄門から無罪放免まで揺れ続ける中で、浪士を預かった各大名家の対応に差が現れたのは当然の結果だったろう。浪士に好意的だったのが細川家と水野家。浪士を冷遇したのは毛利家、松平家。

 「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の 沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」。注目すべきは、狂歌を詠んだ庶民は圧倒的に浪士びいきだったことだ。


ツナノミクス

 赤穂浪士の討ち入りが行われたのは元禄15(1702)年。五代将軍綱吉の治下である。

 元禄以前、徳川幕府は長いデフレに苦しんでいた。さらに追い打ちをかけたのが明暦3(1657)年に起った明暦の大火。江戸の大半を焼き尽くすという未曽有の災害だった。

 経済政策が行き詰まる中、綱吉は軽輩だった荻原重秀を抜擢し、重秀の唱える「元禄改鋳」を断行する。市中の貨幣を回収し、金銀の含有量の少ない貨幣に改鋳して貨幣流通量を増やすという施策だ。これによって、「元禄バブル」と呼ばれる好景気が出現し、「元禄文化」が花開いていく。

 景気がよくなれば、世の評価に恐いものはない。だから何をしてもいいと考えたかどうかは定かでないが、綱吉は独善的な政治につき進んでいく。「生類憐みの令」に代表される悪政を強いるとともに、幕府の政治体制も老中・大老の仕組みを無視し、側用人という「お友達」を重視した。

 「元禄バブル」は、実は年数%の緩やかなインフレだったとの説もある。しかし、庶民は好景気の恩恵を受けることができず、諸色値上げのしわ寄せだけを被った。おまけに、お友達政治がもたらす数々の悪法が生活を圧迫する。不満を内に秘めた庶民は、公然と幕府に反旗を翻した赤穂浪士を「義士」とたたえ、拍手を送った。

 歴史学者の間では、綱吉の評価は意外と高い。元禄改鋳は、当時とすれば画期的な貨幣政策だったといえなくもない。生類憐みの令も、近年見直しの議論がある。ただ綱吉は、庶民の機微を理解する心を持てなかった。これが後世の評価を決定的におとしめる。水戸黄門との対比が強調される理由もここにある。漫遊譚自体がフィクションである黄門様は、庶民が生み出した「おらが名君」の象徴に他ならない。

 ゆめゆめ誤解なきように。これは今から300年以上も昔、元禄時代のお話しである。