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目黒のさんま 《 観ずる東京23区 その27 》

 《 観ずる東京23区 その27 》


           目黒のさんま




                       東京23区研究所 所長 池田利道




元祖「さんま祭り」? 本家「さんま祭」?

 9月8日の日曜日。小雨がぱらつく悪天候をものともせず、目黒駅前がさんま祭りで賑わった。振舞われたサンマは7千匹。すっかりお馴染になった東京に秋を告げるイベントである。

 今年は猛暑のせいで海水温が高く、まだサンマが南下してきていない。14年前から無料でサンマを提供してきた宮古市も地元産を諦め、急きょ根室港からサンマを仕入れて送ったらしい。

 18回を数える「目黒のさんま祭り」を主催するのは、目黒駅前商店街の青年部。ただし、商店街も祭りの会場も、住所は品川区上大崎。目黒駅は品川区にある。「本家」ともいうべき目黒区の方では、1週間後の9月15日に「目黒のさんま祭」を開く。こちらも今年で18回目。違いは気仙沼のサンマを使うことと、「祭」に“り”の字の送り仮名がないことくらいか。

 仲が悪い訳でもあるまいし。どうせなら、同じ日に協力し合って盛大にやればと思うのだが、そうはいかないところもあるのだろう。

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  目黒のさんま祭り
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目黒寺町千体仏

 目黒と聞けば、サンマと並んでお不動様を思い出す。目黒不動の名で親しまれている泰叡山瀧泉寺は、9世紀初めに慈覚大師が創建したと伝えられる東京有数の古刹のひとつだ。本堂にのぼる石段の手前には独鈷の滝。2体の龍口から流れ落ちる水は、創建以来涸れたことがないという。まさに瀧泉寺である。独鈷の滝は霊験あらたかな水垢離の場とされ、西郷隆盛も島津斉彬の病気平癒を祈願した。今では、水掛け不動が代わって霊水を浴びてくださる。

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  目黒不動・独鈷の滝
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 目黒不動の周りにはお寺が多く、寺町の風情が漂う。参道商店街の中には、蛸薬師で有名な成就院。仁王門脇の小道を入ると五百羅漢寺。松雲禅師が独りで彫りあげた羅漢像に圧倒される。お隣の海福寺には、風格ある四脚門が佇む。

 山手通りを越え、目黒川を渡ると行人坂。坂の途中に大円寺が建つ。ことの辻褄は逆で、行人(修行僧)が多く住む大円寺の前にあるから行人坂と呼ばれたそうだ。

 大円寺の境内には、釈迦三尊像を中心に石の羅漢像が並ぶ。江戸三大大火に数えられる明和の大火は、大円寺が火元となる。500余体の石仏群は、この火事の犠牲者を供養するために造られた。
 五百羅漢寺の羅漢像はあくまでも写実的。大円寺の羅漢さんはみな穏やかなお顔。五百羅漢の中には、必ず自分に似た顔があるという。目黒には、あなたに似た仏様が2人おられるかも知れない。

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  大円寺石仏群
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江戸城の裏鬼門封じ

 実は目白も、お不動様に由来する。目白不動は、今は豊島区高田の金乗院に祀られているが、かつては椿山荘の近くにあった。つまり文京区の目白台。目黒、目白だけでなく、目赤不動(文京区本駒込)、目青不動(世田谷区太子堂、かつては港区六本木)、目黄不動(台東区三ノ輪、江戸川区平井など)もある。これらを合わせて「五色不動」と呼ぶ。

 「3代将軍徳川家光は、天海大僧正の建言を入れて、陰陽五行説に基づく『黒白赤青黄』の五色不動を配し、江戸のまちを災厄から守る結界とした」。しかし、この説はかなり怪しい。

 目黒の地名は古くからあった。馬の放牧地の周りに畦を盛ったことから「馬(め)畦(くろ)」と呼んだとする説が有力である。そもそも江戸時代には、目黒、目白、目赤の三不動しかなく、目青と目黄は明治以降に名乗られるようになる。江戸川柳に曰く、〈五色には 二色足らぬ 不動の目〉がその証拠だ。目赤不動にも疑義があり、もともと伊賀の赤目山に由来する赤目不動だった。さらに、陰陽五行説では青が東、白が西、赤が南、黒が北、黄が中央を表わすが、目白の西が合っている以外、すべてバラバラである。

 風水では北東を鬼門とし、南西を裏鬼門とする。江戸城の南西に位置する目黒不動は、裏鬼門を封じる重要な位置にある。このため、俗に「目黒御殿」と称されるほど幕府の厚い庇護を受けた。目黒と語呂を合わせるように、当時信仰を集めていた赤目不動の名を目赤に変える。同様に人々の信仰が厚かったもう一つの不動尊を、江戸城の西にあることから目白不動と名づける。当らずといえども遠からず、ではないだろうか。


ド田舎目黒

 目黒区は男性100人に対する女性の割合が114人にのぼり、東京23区で一番多い。所得水準も、23区の平均を大きく上回る。多くの女性たちにとって、一度は住んでみたい憧れのまちだ。ところが、江戸時代は竹やぶが広がり、農村が続く全くのド田舎で、鷹狩りのメッカでもあった。

 家光は、とりわけ目黒での鷹狩りを好んだようだ。江戸城からは、今の三田2丁目にあるつづら折りの坂道を目黒川の方に下っていく道を常とした。この坂道には清水が湧き出、小さな茶屋があった。家光は茶屋の主人を「爺、爺」と親しみ、いつしか坂道は茶屋坂と、茶店は爺々が茶屋と呼ばれるようになる。落語「目黒のさんま」を生み出した、エピソードのひとつとされる。

 今、当時を偲ばせるものは、坂下に建つ「茶屋坂の清水の碑」だけ。辺りには瀟洒な住宅や高級マンションが建ち並ぶ。欠けた皿に焦げたサンマではなく、高級スーパーで買ってきたサンマのマリネが似合いそうなまちに姿を変えた。

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  茶屋坂の清水の碑
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 「目黒のさんま」は、2つのミスマッチがおかしさを誘う。殿様と庶民の魚サンマとのミスマッチ。そして、農村目黒と海の幸サンマとのミスマッチ。「さんまは浦安にかぎる」では、「ああそう」でおしまい。「目黒にかぎる」だからドッときた。今の目黒からは思いもよらないことながら、想像の翼を広げてみると、落語がもっと楽しくなる。