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消えた駅、消えない駅 《 観ずる東京23区 その29 》

 《 観ずる東京23区 その29 》


           消えた駅、消えない駅




                       東京23区研究所 所長 池田利道




よみがえった鉄ちゃんの聖地

 7年前、惜しまれながら幕を下ろした万世橋の交通博物館。9月14日、その跡地に「mAAch ecute(マーチエキュート)神田万世橋」がオープンした。JR東日本の新業態、「エキナカ」ならぬ「マチナカ」商業施設である。

 最大の特徴は、旧万世橋駅の高架橋をそのままに受け継いだレンガアーチ。外向き店舗のエントランスも、神田川沿いのウッドデッキに面するショーウインドウも、インショップのディスプレイ空間も、全てがリズミカルなレンガアーチの連続で構成されている。駅のホームもよみがえった。万世橋駅開業時に造られた階段を上ると、ガラスに囲まれた展望デッキ。目の前を電車が走り抜ける。

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  マーチエキュート神田万世橋
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 1912(明治45)年に開業した万世橋駅は、中央線のターミナル駅として産声をあげる。駅前の須田町交差点は市電の一大結節点で、銀座と並び称される賑わいが溢れていたという。設計者は、東京駅と同じ辰野金吾。食堂やバー、会議室などを備えた壮麗な駅舎だった。

 しかし、1919(大正8)年に中央線が東京駅まで延伸され、ターミナルの役割は終わる。追い打ちをかけたのが関東大震災。建替えられた2代目駅舎は、初代とは異なる質素なものとなる。それ以上に、震災後の区画整理で須田町交差点の場所が移り、駅前は裏通りに変わってしまう。

 その後も利用者は減り続け、1943(昭和18)年にはやむなく営業休止に至る。こうして万世橋駅は、開業後わずか31年で姿を消した。


南新宿駅の謎

 廃駅と聞くと、過疎地をイメージしがちだが、東京23区内でも廃止になった駅は少なくない。

 まだ記憶に残るのが、京成本線の上野と日暮里の間にあった博物館動物園駅。営業休止は1997年、正式廃止は2004年。廃止の最大の理由は、ホームが短く4両編成の電車でさえはみ出していたからだとか。国会議事堂を思わせる地上出入口の建物だけが、当時の姿を伝えている。

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  旧博物館動物園駅地上出入口
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 東京で廃止になった駅には、ターミナルに隣接するものが多い。利用者が集中して存在するターミナル付近には、高密度に駅が配置されていたのだろう。京成本線の上野・日暮里間には、博物館動物園駅に加えて寛永寺坂駅が、日暮里・新三河島間には道灌山通駅があった。東急東横線渋谷・代官山間の並木橋駅、西武池袋線池袋・椎名町間の上り屋敷駅、東武伊勢崎線浅草・業平橋(現・とうきょうスカイツリー)間の隅田公園駅なども、かつて存在した駅である。

 ターミナル隣接駅の中で、今も健在を示すのが小田急線の南新宿駅。新宿駅からの営業距離は800m。大新宿駅の南端にあたる甲州街道からは600mしかない。乗降客数は1日平均約3,700人。輸送力が限られる新交通システムや路面電車を除いた在来鉄道線の中では、東京23区で一番少ない。

 南新宿駅には謎が多い。駅の乗車客数と降車客数は、通常ほぼ同数になる。ところが、南新宿駅は降車客が乗車客を約4割も上回る。もっともこの謎は、答が推測できる。帰りは新宿から乗る方が座れるからだ。

 もうひとつの謎は、定期利用客と切符利用客の割合。私鉄であれJRであれ、平均は概ね定期6に対し切符4。だが南新宿駅は、切符利用客が定期利用客より3倍も多い。駅至近の場所にあるJR病院の影響だろうか。


10本に1人の利用者

 東京23区で最も利用客数が少ないのは、ゆりかもめの市場前駅。1日平均の乗降客数は約40人。上り下り合わせて1日に440本(土・休日は約400本)の電車が発着するから、利用者はおよそ10本に1人に過ぎない。さすがに駅員はいないようだが、電気は煌々と灯り、エレベーターやエスカレーターが動き、空調もバッチリ効いている。考えるまでもなく、大赤字に違いない。

 この駅が成立している秘密は、その名前にある。市場とは、築地から移転してくる豊洲新市場のこと。当初計画では2012年に開場予定だった豊洲新市場は、現在のところ2015年度中のオープンが目標とされる。しかし、最大の課題である土壌汚染対策は予断を許さない。

 もっとも、周辺のインフラ整備は着実に進んでいる。都心方面と結ぶ環状2号線の豊洲大橋は、2008年には工事が完了し、供用されないまま5年になる。工事費も、金利負担も、長期放置の維持管理費も、全て税金と考えると、すんなり納得できかねる。

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  市場前駅
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ポストオリンピックに何を残す

 豊洲大橋の対岸は晴海。1996年に東京国際見本市会場が閉鎖されて以降、広大な空地が広がる。

 晴海は、幻に終わった1940(昭和15)年開催予定の万博会場だった。招致に失敗した2016年の東京オリンピックでは、オリンピックスタジアムの建設予定地となる。2020年オリンピックでは、競技場群の要に位置する選手村。国家的イベント計画に振り回され続けてきたこの地にとって、80年ぶりの悲願達成である。

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  豊洲大橋
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 1964年の東京オリンピックの選手村は、代々木公園に生まれ変わった。それだけではない。新幹線が開通し、首都高ができ、さらにはゴミ出しのルールが変わるに至るまで、50年前のオリンピックは都市としての東京に大きな変化をもたらした。大規模な投資を要する一大イベントは、それをいかに成功させるかより以上に、その後に何を残すかが問われる。歓迎ムード一色に染まる中で、「ポストオリンピック」の議論が欠けているように感じてならない。

 まだ7年ある。いや、もう7年しかない。