《 観ずる東京23区 その28 》
根岸あたり
東京23区研究所 所長 池田利道
糸瓜(へちま)忌
9月19日は子規忌。1902(明治35)年のこの日、正岡子規は短い生涯を終える。享年34歳。亡くなるまでの10年間を根岸に暮らした子規は、根岸のまちを愛して止まなかった。
最初の間借り生活から、2年後には近くの庭つき二軒長屋のひとつに移る。わが国近代俳句・短歌の道筋は、「子規庵」と名づけられたこの小さな家から生み出されていく。子規庵の建物は、太平洋戦争末期の空襲で焼失するが、その後ほぼ当時のままに再建されている。
重い結核に冒され、さらに脊椎カリエスを併発し、やがて座ることさえできなくなった子規が過ごした病間の庭先には、大きなへちまがぶら下がっていた。痰切りの効果があるとされるへちま水を、藁をもすがる思いで口に運んだのだろう。
絶筆は、死の前日に詠んだへちま3句。子規忌は、別名「糸瓜忌」ともいわれる。
〈をととひの へちまの水も 取らざりき〉。
子規庵
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鴬鳴く文人の里
子規庵の最寄り駅は鴬谷。元禄時代に寛永寺門主となった輪王寺宮公弁法親王が、「江戸の鴬はなまっている」と、京都から鴬を取り寄せ放ったことに由来する。
〈雀より 鶯多き 根岸かな〉。説明調がやや気になる。
〈飯たかぬ 朝も鶯 鳴きにけり〉。個人的には、こちらの方が好みだ。
江戸の外れに位置した根岸は商家の別宅が多く、お妾さんたちが密かに住むまちでもあった。
〈妻よりは 妾の多し 門涼み〉。子規には、茶目っ気のある句も少なくない。
根岸の名誉のためにつけ加えると、この地には風流を愛する文人墨客も多く住んだ。その伝統は明治になっても引き継がれ、「根岸党」あるいは「根岸派」と呼ばれる文化人のサロンが形成される。子規庵の向かい、画家であり書家でもあった中村不折の旧宅には、不折が創設した書道博物館が建つ。
おっと忘れていた。書道博物館の裏手に、「昭和の爆笑王」初代林屋三平ゆかりの「ねぎし三平堂」。根岸を語って、三平師匠を欠かすことはできまい。うっかりしていて、「どうもすいません」。
根岸探訪
子規庵は戦災で焼けてしまったが、金杉通りに沿った根岸3、4、5丁目は、戦争の大きな被害を受けずに済んだ。このため曲がりくねった路地や、古い木造の建物が残り、通り沿いには昭和の看板建築も多い。建築探偵団になって金杉通りを背面(うしろむき)地蔵が有名な薬王寺まで散策する。
帰りは、裏路地巡りに挑戦。迷いながらも西蔵院の不動堂に辿りつく。境内の「御行(おぎょう)の松」は、子規も四季それぞれに句を詠んだ名木だったが、昭和の初めに枯死し、今は掘り起こした根が祀られている。植え直された2代目もほどなく枯れ、現在は3代目。樹齢350年、高さ13.6m、幹回り4m余と伝えられる初代とは比べることができないものの、やがて立派な大木に育っていくに違いない。
〈薄緑 お行の松は 霞けり〉。この句は季節が春。秋なら、〈松一本 根岸の秋の 姿かな〉。
御行の松
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豆腐と朝顔
鴬谷駅の方に戻れば、尾竹橋通りと尾久橋通りの交差点角に豆腐の名店「笹乃雪」。同店では「豆富」と記す。創業はおよそ320年前。公弁法親王のお供をして京から江戸に下り、江戸で初めて絹ごし豆腐を作った老舗中の老舗である。
スーパーで1丁50円を切る豆腐が手に入る時代にあって、東京の商店街には豆腐屋がまだまだ健在だ。東京23区の人口10万人あたりの豆腐屋の数は10.6店を数え、全国平均(6.8店)の1.5倍を超える。豆腐は手づくりの味が際立つ食材。味でスーパーと伍していけるから、豆腐屋が残っているのだろう。その頂点に、笹乃雪のような名店がある。
子規も笹乃雪の豆腐を愛したひとり。〈蕣に 朝商ひす 笹の雪〉。
「蕣」は"あさがお"と読む。子規は朝顔を好み、朝顔を題材にした句を数多く残している。
〈蕣や 君いかめしき 文學士〉。文学士とは、終生の友人夏目漱石。
死の前年に俳画とともにしたためた朝顔4句は、寝たきりになった子規の想いが胸を打つ。
〈朝顔や 絵の具にじんで 絵を成さず〉。
野球のレジェンド
子規が野球の殿堂入りを果たしていることをご存知だろうか。熱烈な野球好きだった子規は、「野球」という熟語を最初に考え出す。ただしこれを"やきゅう"と読ませ、ベースボールの訳語にしたのは、後輩の中馬庚。子規は幼名の升(のぼる)にあてて、"のぼーる"と読ませて雅号のひとつとした。
とはいえ、打者、走者、直球、四球、飛球など、子規が訳した言葉は今も使われている。上野公園には、その功績を讃えた「正岡子規記念球場」がある。
〈夏風や ベースボールの 人遠し〉。ほとんど病床から起き上がれなくなったころの句。
子規記念球場横には、〈春風や 毬を投げたき 草の原〉の句碑。20代前半のまだ元気に野球を楽しんでいたころの作である。
正岡子規記念球場
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ざっと拝んで
鴬谷の駅前から言問通りを山の手線の内側に入った浄名院には、地蔵像ズラリと並ぶ。地蔵尊は右手に錫杖、左手に宝珠が決まりだが、なかに左手にへちまを持つお地蔵様。人呼んで「へちま地蔵」。毎年旧暦の8月15日に、咳封じの「へちま加持」が催される。
8月15日の満月の日の取ったへちま水は、とりわけ痰切り、咳止めの効能が高いと言い伝えられてきた。ちなみに、子規が絶句を詠んだのは旧暦で8月17日。「をととひ」の謎がこれで解ける。
浄名院へちま地蔵
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浄名院の少し先、今は下町風俗資料館になっている旧吉田屋酒店の角を右に曲がり、谷中銀座の方に抜ける途中にある功徳林寺は、江戸時代は福泉院というお寺だった。境内に祀られた笠森稲荷に、男たちが足しげく通ったという。門前にあった水茶屋の看板娘が超美人だったからだ。名はお仙。「向こう横丁のお稲荷さんへ 一銭あげて ざっと拝んでお仙の茶屋へ」のお仙である。
福泉院は明治の初めに廃寺となるが、その跡に建てられた功徳林寺の境内に、今も笠森稲荷の祠が建つ。近くには、絵馬屋、べっ甲屋、線香屋など、覘いてみたくなる店が多い。でも、それはまたの機会に。陽も傾き始めた。今日のところは、ざっと拝んで豆腐を食べに戻るとしよう。
笠森稲荷
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