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大久保今昔 《 観ずる東京23区 その30 》

 《 観ずる東京23区 その30 》


           大久保今昔




                       東京23区研究所 所長 池田利道




千人町、百人町

 家康は考えた。江戸を滅ぼす敵は甲州街道からやってくる。所詮天才が考えたこと。理由はよく分からない。はっきりしているのは、武蔵野台地に入ると天然の要害もなく、大きな城もない甲州街道に、2重の防衛線を敷いたことだ。

 第1陣は八王子。甲州街道と陣馬街道の追分の地(街道が合流・分岐する場所)に、千人の歩兵部隊を置く。世にいう八王子千人同心である。今も八王子には千人町の名が残る。

 第2陣は江戸の手前。こちらは百人ずつの4部隊に分けた。人数が少ない分、伊賀、甲賀、根来などの特殊部隊。といっても忍者ではない。当時最強の兵器だった鉄炮部隊だ。このうち、服部半蔵旗下の伊賀組は新宿に配置される。場所は、今の伊勢丹あたり。当初は野戦配備だったようだが、やがて部隊は大久保の地に定住するようになる。百人町の起りである。

 百人町に定住した「大久保組」は伊賀組ではなく、新編成の二十五騎組だったとの説もある。


百発百中、みなあたる

 大久保鉄炮百人同心の組屋敷は江戸を守る砦。大久保通りの両側に与力・同心屋敷が軒を連ね、東西には番兵が常駐する木戸が設けられた。軍事基地としての特徴は、町割にも色濃く表れていた。城下町の町屋は、間口2~3間、奥ゆき約20間という「うなぎの寝床」の形を採ることが多い。百人町では、間口3~4間、奥ゆき30~50間の「超うなぎの寝床」。今でも地図をみれば一目瞭然だろう。攻めにくく、守りやすくかつ逃げやすい。そんな軍事上の目的が、特殊な敷地を生み出したのだ。

 鉄炮同心たちの信仰を集めたのが、新大久保駅そばの皆中稲荷。中は「あたる」と読む。つまり「みなあたる」。鉄炮同心ならではの氏神様である。

 9月22日、その皆中稲荷から、鎧兜に火縄銃の出で立ちの鉄炮同心たちが、百人町のまちに繰り出した。2年毎に行われる「鉄炮組百人隊出陣の儀」だ。圧巻は西小山公園野球場での試射。一斉射撃あり。連続射撃あり。次々と繰り出される轟音。舞い上がる煙。迫力満点とは、まさにこれを指す。

 戊辰戦争で官軍が江戸に攻めのぼって来たとき、火縄銃はどうしようもなく旧式な武器になっていた。だが、それも270年の泰平が続いたからこそ。そう考えると、大久保鉄炮百人組は、立派に務め果たしたことになる。

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  鉄炮組百人隊試射
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文士村から楽器のまちへ

 明治に入ると大久保は、他の多くの武家地と同様、屋敷町へと姿を変える。といっても、大久保とはおそらく元「大窪」で、一等地になる条件を欠いていた。しかも鉄炮同心の身分は足軽。大名や旗本の抱屋敷が集まっていた今の歌舞伎町などと比べると、ワンランク下は否めなかった。

 いうなれば、緑に囲まれた長閑な郊外の中級住宅地。こうした土地柄は、文筆家や芸術家が好む。実際、大久保は「大久保文士村」と呼ばれるほど、多くの文化人に愛される。

 大久保通りから細い路地を入っていくと、突然ギリシャ風の公園が現れる。名は小泉八雲記念公園。ギリシャ風であるのは、八雲がギリシャ生まれだからだ。近くの大久保小学校の横には、「小泉八雲終焉の地」の碑。大久保文士村の歴史を伝える貴重なモニュメントである。

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  小泉八雲記念公園
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 文士村には音楽家も数多く住んだ。そのDNAを引き継いで、太平洋戦争後の大久保は楽器のまちとなる。東京交響楽団の本部も、クロサワ楽器の日本総本店も大久保にある。中古楽器の販売や楽器の修理を扱う店が多いことは、大久保と楽器の繋がりの原点を今に伝えている。

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  大久保の中古楽器店
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演出されたコリアンタウン

 戦後の大久保は、一転負の色彩を強める。軍事基地に由来する特殊な地割の土地に、十分な都市計画なきままに住宅地化が進んだことがその根底に横たわる。表通りに抜ける細い路地を通すだけで土地は細分化され、路地裏では秩序なき転用が繰り返されていった。

 最初は簡易宿泊所(ドヤ)の発生。やがてドヤはラブホテルへと変わる。路地裏に建つ安価なアパートとあいまって、バブル期には街娼がたむろする不法滞留外国人の巣と称されるまでに至る。

 東京に住む外国人の割合は、23区の平均が4%。新宿区は10.5%。これに対して百人町1・2丁目から大久保1・2丁目にかけてのエリアは何と36%。これら4町丁合計の外国人比率は、20年前の1993年は15%。高いとはいえ現在の半分にも満たなかった。にもかかわらず、20年前の大久保は、用もないのに路地に入るのを尻込みしたくなるまちだった。今の大久保は、カラッと明るいコリアンタウン。表通りだけでなく、イケメン通りをはじめとする裏路地にも、屈託のない笑顔が溢れる。

 大久保のコリアンタウンを支える主役は、1990年代以降に海を渡ってきたニューカマーのコリアンたち。それ以前から、大久保には韓国・朝鮮系の人々が多く暮らしていた。新宿に近い割には住宅が安く、何より同胞が多い大久保に、ニューカマーたちも集まってくる。彼らのニーズに応える商店も増えていく。そしてあるとき、一気のブレイクが訪れた。韓流ブームがその後押しをしたことは想像に難くない。

 大久保のコリアンタウンは、一種のテーマパークのようなものだ。演出された空間と言い換えてもいい。わが国のもうひとつの代表的なコリアンタウンである大阪の鶴橋のような、地に足を踏ん張った重さはなく、どこまでも軽く明るい。

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  大久保コリアンタウン
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 土着パワーの力強さと、流動パワーの勢い。大阪と東京の東西都市比較文化論の究極のテーマである。日本人の生活様式は画一化し、今では比較のタネも少なくなってきた。それが、外国人街に受け継がれているのは何とも興味深い。学者ならいうだろうか。「蓋し、文化は辺境に宿る」と。