《 観ずる東京23区 その38 》
新春馬づくし
東京23区研究所 所長 池田利道
東京は馬だらけ
今年は午年。年賀状では色んな馬と出合った。可愛いい馬。凛々しい馬。お茶目な馬。リアルな馬。馬はどんなタッチでも絵になる。これが巳年ならお茶目一点張りしかない。
馬は、農耕に、人や荷物の運搬に、あるいは軍事に、なくてはならない存在だった。このため、馬に由来する地名は全国に数多い。試みに東京23区内の駅の名前を調べてみると、馬がついたものが12駅、駒が4駅。さらに、荷物を運ぶ馬を指す「駄」がつくものが2駅ある。合わせて18駅。2位は牛、鳥、亀、鴨がそれぞれ3駅だから、いかに馬が多いかが分かるだろう。
ふたつの練馬駅
区の名前に馬がついているのは練馬区。練馬の名は、古代の「乗瀦(のりぬま)」という宿駅の読みが訛ったとするもの、石神井川流域低地の奥に位置する大きな沼地だったところから「根(ね)沼(ぬま)」が転じたとするもの、土器を作る粘土を取る「練場(ねりば)」に由来するというものなど諸説がある。そんな中で、野武士が盗んだ馬を売るために調練するところだったという説は楽しい。東京随一の農業区であり、かつては広大な武蔵野の原が広がっていた練馬区にとって、何ともお似合いではないか。
西武池袋線と大江戸線が交わる練馬駅は区の中心で、区役所もここにある。だが、練馬駅はもうひとつある。東武東上線の東武練馬駅だ。ふたつの練馬駅は直線距離で3.5kmも離れている。
先にできたのは西武の方。しかし、東武側にも言い分がある。駅前の商店街は、江戸時代に川越街道の下練馬宿があった場所。川越街道と大山道が分岐する交通の要衝で、繁華な宿場町が栄えていた。歴史を辿れば、こちらの方が練馬の中心といえなくもない。
東武練馬の駅前商店街には、歩道のそこここに馬のミニモニュメントが置かれている。「練馬の由来は馬なんだ」。そう、つぶやいているかのように思えてきた。
東武練馬駅前商店街のミニモニュメント
※画像はクリックで拡大。
競馬場の上にできた街
本シリーズの第27回にも記したように、目黒も「馬(め)畦(くろ)」に由来するとの説があり、馬と縁がある。いささか牽強付会といわれるのなら、こちらはどうか。競馬の重賞レース「目黒記念」。最近は、日本ダービー当日の最終レースとして行われている。実は目黒区は、ダービーと繋がりが深い。
目黒駅から目黒通りを歩くこと約20分。元競馬場前という交差点に小さな馬の像が立つ。1907年(明治40)年に開設された目黒競馬場がここにあった。わが国最初の本格的な競馬場で、競馬場といえばお馴染の長円形のコースが日本で初めて導入されたという。開設当初は板橋や池上にも競馬場があったが、1910(明治43)年にはこれらが整理統合され、以後東京で唯一の競馬場となる。
1932(昭和7)年4月24日、この目黒競馬場で4歳馬の日本一を決める第1回の「東京優駿大競争」が開催される。日本ダービーの正式名称は、今も「東京優駿」である。
しかし、昭和の初めといえば、関東大震災を契機として東京郊外の宅地化が一気に進んだ時代。目黒競馬場もこの流れに勝つことはできず、1933(昭和8)年に府中に移転する。
目黒通りの南に広がる住宅地の中に入っていくと、丸くカーブする路地に沿って住宅が並んでいる。これぞまさしく競馬場のコースの名残り。そこには競馬場の上にできた街があった。
ふりむくとハイセイコー
東京モノレールの大井競馬場前駅。東京シティ競馬を主催するのは特別区競馬組合。東京23区の公営ギャンブル場は、他に平和島競艇と江戸川競艇があるが、平和島競艇は府中市、江戸川競艇は多摩地域の9市が行っているもので、23区とは直接の関係がない。
東京シティ競馬は、1986年から「トゥインクルレース」と銘打った日本最初のナイター競争を開催するほか、場内全体のアミューズメントパーク化を図るなど、集客に力を尽くしている。とはいえ、訪れたのは平日の昼間。お世辞にも賑わっているとはいい難い。それでも生のレースの迫力は満点だ。パドックで気合の入った馬を間近に見ることができるのも、すいているからこそである。
正門の前にはハイセイコーの像。1972年、ハイセイコーはここでデビューする。75年の引退時に、増沢末夫騎手が歌った「さらばハイセイコー」がヒットしたが、歌詞もメロディも忘れてしまった。時代を共有する身としては、寺山修司の同名の詩の方が心に残る。
ふりむくと / 一人の少年工が立っている / 彼はハイセイコーが勝つたびに / うれしくて / カレーライスを三杯も食べた
ふりむくと / 一人の失業者が立っている / 彼はハイセイコーの馬券の配当で / 病気の妻に / 手鏡を買ってやった …
馬が主役の公園
所変わって、世田谷区の馬事公苑。中央競馬会が運営する、馬事の普及・向上を目的とする公園だ。一般来園者にとっての最大の魅力は、馬と身近に触れ合えること。開放されている走路では、目の前を悠然と馬が通り過ぎて行く。道を開けるのは人間の方。ここでは馬が主役である。
馬事公苑は、スポーツ馬術の殿堂でもある。50年前の東京オリンピックの馬術競技はこの地で行われた。馬術は伝統あるオリンピック種目であり、1932年のロサンゼルス大会では、「バロン西」こと西竹一が障害飛越で金メダルに輝いている。
もっとも、わが国では馬術はマイナーな存在だ。乗馬ファンと競馬ファンは全く異なる。その競馬も、中央競馬の売上は、1997年のピークと比べ約6割に落ち込んでいる。他の公営ギャンブルはもっと深刻で、ピーク時(いずれも1991年)と比べ、競艇が4割強、地方競馬と競輪が3分の1、オートレースに至っては4分の1。それでも、公営5競技の年間売上高は4兆円2千億円を超え、さらにその裏に20兆円産業といわれるパチンコが控えている。ギャンブルの市場規模はバカにならない。
パチンコ人口は約1,100万人。公営ギャンブル人口もこれと同数と仮定すると、実施者1人あたりが公営ギャンブル・パチンコに投じる額は年間220万円に上る。
2020年の東京オリンピックに向けて議論が盛り上がっているカジノ解禁は、こうした数字をひとつの背景にしているのだろうか。「いや、海外からの観光客を増やすためだ」との意見もあるが、「おもてなし」が魅力の国で、なんでカジノかとなると違和感も否定できない。
カジノの是非をここで論じるつもりはない。ただ、カジノ解禁を望んでいるのは、配当で病気の妻に手鏡を買ってやるような人でない。それだけは間違いなさそうである。