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試験のための投稿です。7月7日

針供養 《 観ずる東京23区 その39 》

 《 観ずる東京23区 その39 》


           針供養




                       東京23区研究所 所長 池田利道




「もったいない」がルーツ

 大正生まれの母は裁縫が好きで、足踏みミシンを始終かたかた鳴らしていた。お洒落な服が手軽に買えるようになった今、家庭で裁縫をすることはめっきり少なくなった。

 『レジャー白書』によると、2012年の1年間に洋裁・和裁をした人(ただし、その99%が女性であるため、以下は女性に限ったデータを記す)は17%。およそ6人に1人に止まる。しかも年齢による差が大きい。70代では3割近くにのぼるのに対し、10代では1割に満たない。今どきの若い人たちにとって、針を持つのはボタンが取れた時くらいになっているようだ。

 だから、針供養という行事も遠い存在になった。折れたり曲がったりした針を豆腐に刺してねぎらう針供養は、西日本では12月8日に、関東や東北など東日本では2月8日に行われることが多い。12月8日は1年の農作業を終える「事納め」の日。2月8日は農作業を始める「事始め」の日。この日は針仕事を休んだことから、古い針に感謝する風習が生まれたという。

 針供養にはもうひとつの意味がある。あらゆるものに神性を感じる日本人は、古くなった道具には「九十九(つくも)(がみ)(付喪神)」と呼ばれる神が宿ると考えた。使えなくなった道具を粗末に扱うと祟りにあう。というよりは、できるだけものを大切にし、いよいよ役に立たなくなったら、これまでの働きに感謝する。針供養は、「もったいない」の精神が生み出した先人たちの思いの結晶である。


淡島様に見守られ

 広く、大きく、奥深い東京。東京では、今も針供養の伝統がしっかりと受け継がれている。

 2月8日。あいにく朝から雪。にもかかわらず、浅草寺の淡島堂には参拝者が集まり、大豆腐に役目を終えた針が供養されていた。境内の「針供養の塔」は、大東京和服裁縫教師会が裁縫に関わる多くの人々の協賛を得て建立したものだ。

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  大豆腐に供養される針
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 世田谷区代沢の森巌寺でも針供養が行われる。江戸時代にまで遡る歴史を持ち、区の無形民俗文化財にも指定されている由緒正しき針供養である。寺の南を走る道路の名前は淡島通り。一番近い交差点は淡島交差点。針供養が行われるのは本堂ではなく、浅草寺と同じ淡島堂。針供養は、「淡島」がキーワードのようだ。

 淡島信仰と針供養の繋がりには諸説がある。そんな中から選りすぐりのエピソードをひとつ。

 淡島様は、住吉明神のお后だった。ところが、婦人病を患い離縁されてしまう。悲しみにくれる中、婦人病に悩む人々を救おうと誓いを立て、やがて社会的に弱い立場にあった女性の守り神となる。針仕事は、かつては女性の大事な役目。こうして、淡島様は裁縫の神様になった。


消えゆく伝統を残す知恵

 東京の針供養というと、新宿2丁目の正受院も欠かせない。次第に強くなる雪の中を、次々と人が訪れてくる。甘酒が振る舞われ、模擬店も出る。例年なら、正受院のシンボル「奪衣婆(綿のおばば)」のレプリカを安置した厨子をきらびやかな衣装の女性が担ぎ、寺の周りを巡るお練り行列も繰り出すとか。

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  正受院「奪衣婆」
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 正受院の針供養は、淡島信仰とは直接の関係がない。では、なぜここで東京一の賑わいをもつ針供養が行われているのか。答は、境内に立つ針塚と男性の胸像にある。像は、和裁界で唯ひとり人間国宝となった小見外次郎。塚は、同じ新宿区市谷に本拠をおく東京和服裁縫協同組合が、1957(昭和32)年に建てたもので、針供養の行事も同組合が主催する。

 ちなみに、行事を盛り上げる若い女性たちは、正受院の裏手にある岩本和裁専門学校の生徒さんとのこと。小見外は、晩年ここで和裁の指導にあたった。

 地味な針供養の行事を楽しいイベントに演出し直した影には、きっと知恵者がいたのだろう。換骨奪胎と批判するのはたやすい。しかし、消えゆく伝統が内に秘める思いを残すには、時と状況に応じた変化も必要となる。それは、まちづくりの教科書の第1章に他ならない。

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  正受院の針塚
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クール&スマートウェア

 マイボイスコム㈱が実施した『着物に関するアンケート調査』によると、着物を着た経験のある人は7割を超えるものの、その頻度は「5年に1回以下」が過半数を占め、「これまでに1回しか着たことがない」という人も2割に及ぶ。

 ただしこの調査、「ゆかた、作務衣、甚平、丹前などは除く」とある。ゆかたや丹前はともかくとして、蒸し暑い夏の夜、風呂あがりに着る甚平の快適さはこたえられない。着やすく、動きやすい作務衣のファンも多い。冬の定番となると袢纏。部屋全体を暖めるエアコンやストーブと比べ、省エネ性に優れ、「頭寒足熱」の理にもかなった炬燵との相性は抜群だ。最近のステテコブームもまた然り。風土に適した和の装いを、私たちは決して忘れていない。

 STAP細胞を作り出した小保方晴子さん。割烹着の研究姿を見て、何と機能的で合理的かと感心した。裾や袖口がひらひらした西洋生まれの白衣と比べ、細かな動きにも大きな動きにもフィットする割烹着が、世紀の発見を裏で支えたとは言い過ぎだろうか。

 最近流行りの言葉を使えば、クールでスマート。国会議員の先生方には、国会開会日に和服を着る「和服振興議員連盟」なるものがあるらしい。それはそれで結構なのだが、どこかパフォーマンスの感も否めない。晴れ着もいい。しかし、和装の素晴らしさはむしろ普段着の中に詰まっている。

 それやこれやの思いを胸に、吹きすさぶ粉雪の中、針塚にそっと手を合わせた。

植物の名がついた駅

 駅名シリーズのその2は、植物の名前が入った駅名を探そう。

 一番多いのは、やはり日本人が愛して止まない「桜」。桜台、新桜台、桜新町、桜上水、桜田門の5駅を数える。同じく、日本人にとって切っても切れない「稲」も5駅。早稲田(東京メトロ)、早稲田(都電)、西早稲田、稲荷町、穴守稲荷。もっとも、“稲荷”はひとまとまりの名詞と考えると、「桜」に首位を譲らざるを得ない。

 松竹梅も、日本を代表する植物だ。「松」は、浜松町、東松原、松陰神社前、松原の4駅。「竹」も、竹ノ塚、竹芝、竹橋、小竹向原の4駅。ただし、「笹・篠」も竹の仲間だと考えると、笹塚と篠崎が加わり「松」を上回る。

 「梅」は、梅ヶ丘、梅屋敷、梅島の3駅で、「桜」、「松」、「竹」と比べるとやや後塵を拝するものの、梅ヶ丘や梅屋敷は東京有数の梅の名所である。「桜」の名がついた駅が必ずしも桜の名所であるとは限らないことを考えると、実態としては決して負けていない。

 他に、複数の駅に名がつく植物をあげていくと、荻窪、西荻窪、井荻の「荻」、竹芝、芝公園、芝浦ふ頭の「芝」、蓮沼、本蓮沼、蓮根の「蓮」、葛西、西葛西、葛西臨海公園の「葛(クズ)」、御茶ノ水、新御茶ノ水の「茶」、荏原町、荏原中延の「荏(エゴマ)」、蒲田、京急蒲田の「蒲(ガマ)」、柴又、新柴又の「柴(小丈の雑木の総称)」となる。複数とはいってもひとつの地名から派生したものが多いが、そんな中で「蓮」の名がつく駅名が多いのは注目に値する。蓮沼は大田区、本蓮沼は板橋区で遠く離れた場所だ。仏教の影響だろうか、もっと食いしん坊にレンコンの産地だったからだろうか。

 椎名町、芦花公園、菊川、堀切菖蒲園、茗荷谷、茅場町、小菅、梶原も植物の名前に繋がる。

 地名となると、桃、柿、榎、桐、栗、杉、椿、牡丹、山吹、小豆などもある。興味があればお探し願いたい。


  <所長・池田俊道>

干支の名がついた駅

 東京23区には、干支の動物の名前が入った駅が24ある(駒、鳥を含む)。このうち、圧倒的多数を占めるのが「午(馬または駒)」。馬がいかに身近でかつ有益な動物であったかを雄弁に物語っている。一気にあげると、高田馬場、馬喰町、練馬、東武練馬、練馬高野台、練馬春日町、馬込、西馬込、新馬場、馬喰横山、大井競馬場前、小伝馬町、駒込、本駒込、駒場東大前、駒沢大学。合わせて16駅を数える。

 馬以外では、「丑(牛)」と「酉(鳥)」が3駅ずつ。牛が、牛田、牛込柳町、牛込神楽坂。鳥は、千鳥町、大鳥居、飛鳥山。残る2つは、辰と巳がひとつになった辰巳と虎ノ門である。

 荷物を運ぶ馬を“駄”という。とすれば、千駄ヶ谷、千駄木も馬に加えていいのかも知れない。

 地名にまで広げても馬の優位は変わらない。駅名とダブるもの以外に、日本橋大伝馬町(中央区)、馬場下町(新宿区)、上馬(世田谷区)、下馬(世田谷区)、駒形(台東区)、東駒形(墨田区)がある。

 縁起の良さでは干支の中で随一の「辰」は、竜泉(台東区)、辰沼(足立区)、千住龍田町(足立区)。駅名では「辰」と並ぶ「酉」が鳥越(台東区)。駅名にはないものの、地名では健闘しているのが「申(猿)」で、猿江(江東区)と猿楽町(千代田区と渋谷区)がある。

 ちなみに、干支以外の動物の名がついた駅名となると、「亀」が亀有、亀戸、亀戸水神の3駅。「鴨」が、巣鴨、西巣鴨、巣鴨新田の同じく3駅。鳥の仲間では、他に鴬谷、鷺の宮、鵜の木、千歳烏山もある。目白、目黒(中目黒も)は、同音異義語でメジロ、メグロという鳥がいるから番外というところか。哺乳類では熊の前。魚類では鮫洲も動物の仲間だ。

 地名になると、鹿、狸、鷹、鶴、隼、白鳥、さらには牡蠣もいる。どこに潜んでいるかを探しながら、その名がついた由来まで調べて行くと、東京がいかに動物と共生し合うまちだったかを改めて知ることができるだろう。


  <所長・池田俊道>

新春馬づくし  《 観ずる東京23区 その38 》

 《 観ずる東京23区 その38 》


           新春馬づくし




                       東京23区研究所 所長 池田利道




東京は馬だらけ

 今年は午年。年賀状では色んな馬と出合った。可愛いい馬。凛々しい馬。お茶目な馬。リアルな馬。馬はどんなタッチでも絵になる。これが巳年ならお茶目一点張りしかない。

 馬は、農耕に、人や荷物の運搬に、あるいは軍事に、なくてはならない存在だった。このため、馬に由来する地名は全国に数多い。試みに東京23区内の駅の名前を調べてみると、馬がついたものが12駅、駒が4駅。さらに、荷物を運ぶ馬を指す「駄」がつくものが2駅ある。合わせて18駅。2位は牛、鳥、亀、鴨がそれぞれ3駅だから、いかに馬が多いかが分かるだろう


ふたつの練馬駅

 区の名前に馬がついているのは練馬区。練馬の名は、古代の「乗瀦(のりぬま)」という宿駅の読みが訛ったとするもの、石神井川流域低地の奥に位置する大きな沼地だったところから「根(ね)(ぬま)」が転じたとするもの、土器を作る粘土を取る「練場(ねりば)」に由来するというものなど諸説がある。そんな中で、野武士が盗んだ馬を売るために調練するところだったという説は楽しい。東京随一の農業区であり、かつては広大な武蔵野の原が広がっていた練馬区にとって、何ともお似合いではないか。

 西武池袋線と大江戸線が交わる練馬駅は区の中心で、区役所もここにある。だが、練馬駅はもうひとつある。東武東上線の東武練馬駅だ。ふたつの練馬駅は直線距離で3.5kmも離れている。

 先にできたのは西武の方。しかし、東武側にも言い分がある。駅前の商店街は、江戸時代に川越街道の下練馬宿があった場所。川越街道と大山道が分岐する交通の要衝で、繁華な宿場町が栄えていた。歴史を辿れば、こちらの方が練馬の中心といえなくもない。

 東武練馬の駅前商店街には、歩道のそこここに馬のミニモニュメントが置かれている。「練馬の由来は馬なんだ」。そう、つぶやいているかのように思えてきた。

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  東武練馬駅前商店街のミニモニュメント
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競馬場の上にできた街

 本シリーズの第27回にも記したように、目黒も「馬(め)(くろ)」に由来するとの説があり、馬と縁がある。いささか牽強付会といわれるのなら、こちらはどうか。競馬の重賞レース「目黒記念」。最近は、日本ダービー当日の最終レースとして行われている。実は目黒区は、ダービーと繋がりが深い。

 目黒駅から目黒通りを歩くこと約20分。元競馬場前という交差点に小さな馬の像が立つ。1907年(明治40)年に開設された目黒競馬場がここにあった。わが国最初の本格的な競馬場で、競馬場といえばお馴染の長円形のコースが日本で初めて導入されたという。開設当初は板橋や池上にも競馬場があったが、1910(明治43)年にはこれらが整理統合され、以後東京で唯一の競馬場となる。

 1932(昭和7)年4月24日、この目黒競馬場で4歳馬の日本一を決める第1回の「東京優駿大競争」が開催される。日本ダービーの正式名称は、今も「東京優駿」である。

 しかし、昭和の初めといえば、関東大震災を契機として東京郊外の宅地化が一気に進んだ時代。目黒競馬場もこの流れに勝つことはできず、1933(昭和8)年に府中に移転する。

 目黒通りの南に広がる住宅地の中に入っていくと、丸くカーブする路地に沿って住宅が並んでいる。これぞまさしく競馬場のコースの名残り。そこには競馬場の上にできた街があった。

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  目黒競馬場跡のカーブする路地
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ふりむくとハイセイコー

 東京モノレールの大井競馬場前駅。東京シティ競馬を主催するのは特別区競馬組合。東京23区の公営ギャンブル場は、他に平和島競艇と江戸川競艇があるが、平和島競艇は府中市、江戸川競艇は多摩地域の9市が行っているもので、23区とは直接の関係がない。

 東京シティ競馬は、1986年から「トゥインクルレース」と銘打った日本最初のナイター競争を開催するほか、場内全体のアミューズメントパーク化を図るなど、集客に力を尽くしている。とはいえ、訪れたのは平日の昼間。お世辞にも賑わっているとはいい難い。それでも生のレースの迫力は満点だ。パドックで気合の入った馬を間近に見ることができるのも、すいているからこそである。

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  大井競馬場
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 正門の前にはハイセイコーの像。1972年、ハイセイコーはここでデビューする。75年の引退時に、増沢末夫騎手が歌った「さらばハイセイコー」がヒットしたが、歌詞もメロディも忘れてしまった。時代を共有する身としては、寺山修司の同名の詩の方が心に残る。

ふりむくと / 一人の少年工が立っている / 彼はハイセイコーが勝つたびに / うれしくて / カレーライスを三杯も食べた
ふりむくと / 一人の失業者が立っている / 彼はハイセイコーの馬券の配当で / 病気の妻に / 手鏡を買ってやった …

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  ハイセイコー像
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馬が主役の公園

 所変わって、世田谷区の馬事公苑。中央競馬会が運営する、馬事の普及・向上を目的とする公園だ。一般来園者にとっての最大の魅力は、馬と身近に触れ合えること。開放されている走路では、目の前を悠然と馬が通り過ぎて行く。道を開けるのは人間の方。ここでは馬が主役である。

 馬事公苑は、スポーツ馬術の殿堂でもある。50年前の東京オリンピックの馬術競技はこの地で行われた。馬術は伝統あるオリンピック種目であり、1932年のロサンゼルス大会では、「バロン西」こと西竹一が障害飛越で金メダルに輝いている。

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  馬事公苑
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 もっとも、わが国では馬術はマイナーな存在だ。乗馬ファンと競馬ファンは全く異なる。その競馬も、中央競馬の売上は、1997年のピークと比べ約6割に落ち込んでいる。他の公営ギャンブルはもっと深刻で、ピーク時(いずれも1991年)と比べ、競艇が4割強、地方競馬と競輪が3分の1、オートレースに至っては4分の1。それでも、公営5競技の年間売上高は4兆円2千億円を超え、さらにその裏に20兆円産業といわれるパチンコが控えている。ギャンブルの市場規模はバカにならない。

 パチンコ人口は約1,100万人。公営ギャンブル人口もこれと同数と仮定すると、実施者1人あたりが公営ギャンブル・パチンコに投じる額は年間220万円に上る。

 2020年の東京オリンピックに向けて議論が盛り上がっているカジノ解禁は、こうした数字をひとつの背景にしているのだろうか。「いや、海外からの観光客を増やすためだ」との意見もあるが、「おもてなし」が魅力の国で、なんでカジノかとなると違和感も否定できない。

 カジノの是非をここで論じるつもりはない。ただ、カジノ解禁を望んでいるのは、配当で病気の妻に手鏡を買ってやるような人でない。それだけは間違いなさそうである。

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